知と心の形成としての景観づくり

 美しい景観は、景観の形成に関わる人、特に地域住民の「暮らしの知」の共有と「気遣い」の精神が創りあげる地域の資産だと、私は思っています。

 民俗学者柳田国男の言葉に「美しい村をつくろうなどという計画はありようはずがなくて、よい生活をしている村がひとりでに美しくなってゆくのではないかと思われる」とあるように、地域をあたたかく見守り育てる人の「なりわい」によって形成されるものであり、そのことは都市であっても農村であっても同じはないかと思います。

 過去も現在も、景観は「なりわい」の理にかなう形に創られていくものなのです。都市では都市に暮らす人々の、農村では農村に暮らす人々の、長い歳月をかけた「なりわい」の働きかけの結晶、それが景観なのです。

 もし、景観が無惨な姿になっているとしたら、それは、「なりわい」の理とは無関係の力が働いたからなのではないでしょうか。

 秩序のない色とりどりの看板、地域の個性とは関係のない奇抜な建物、利便性の向上だけを求めた道路・水路など、景観の悪化は施設の造形に表出するだけでなく、不法投棄の山、放棄された農地、無造作に切られていく雑木林など、景観に働きかける生活の姿そのものにも表れます。

 「景観法」は、良好な景観は国民共通の資産であることと、景観を守り育てる主体は住民であることを唱っており、この法律の具現化を目指した施策は今後ますます進められるでしょう。そして、この施策の推進により、都市訪問者を引きつけるような農村景観が生まれ、ある程度は農村地域の再生も進むことでしょう。また、自然との共生を考慮した都市計画によって、都市景観としての魅力も向上することでしょう。

 確かに、法的な規制や造形美の追究によって、資源としての景観の質を向上させることはできます。しかし、それが本当に「美しい日本の景観」と言えるのでしょうか。

 全国各地で展開されている景観施策の中には、造形としての景観づくりに重きがおかれ、見た目だけの綺麗さが強調され、その景観を人が如何に守っていくのかが十分に議論されていない事例が多いように思います。それでもまだ、このような事例は良い方で、場合によっては、景観を綺麗にしようとして、逆に地域のアイデンティティを崩してしまった事例も見受けられます。

 おそらくは、景観に関する法律ができたからと言って、また、景観にかかる施策を推進したからと言って、本質的に日本の景観の美しさが変わるものではないでしょう。

 本当に景観の美しさを求めるなら、その方法は表面的な施策には無いはずです。景観を形成しているのが「なりわい」の理であることを考えれば、「なりわい」の理を、国民ひとり一人がどのように認識するかが最大の施策となってくるのではないでしょうか。

 それでは、「なりわい」の理はどのように認識されることが望ましいのでしょうか。その答えが本文冒頭の「暮らしの知」の共有と「気遣い」の精神にあると私は考えます。

 「暮らしの知」とは、なりわいを成立させるための根幹を成す人のそこで生きる力、知識のことです。人がなりわいを行うときには、様々な「暮らしの知」を使わなければならなりません。米を作るというなりわいでは、土や水、気候、植物、周辺に生息する生物のこと、地域文化を知らなければならないし、それらの資源をうまく配置しなければなりませんし、自然をうまく使った農法そのものを先人から学ばねばならないでしょう。これが「暮らしの知」です。

 そして、この「暮らしの知」は、人が自然や環境を読み取る知である「自然知」や、先人から伝えられる知である「伝承知」、自分自身の身体と能力、社会での役割を認識する知としての「身体知」などから成るものです。

 この中身について、ここで詳細に説明したいところではありますが、本文のテーマは「景観づくり」ですから、「暮らしの知」についてはまた別の機会にお話しすることとして、これらの知が、住民参加の意義に、どのように繋がっていくのかについて話を進めて参りましょう。

 私がこれまで全国各地において地域住民の皆さんと共に景観づくりを進めてきた経験を総括しますと、美しい景観づくりが持続的に実践されている地域の住民は、どうも、景観を美しくするだけの努力をしているように見えないのです。もちろん、施設づくりや沿道の植栽など、景観保全についての活動もしますが、むしろ、彼らがやっていることは、自分たちの生き方、住み方の見直しであり、これについて何度も何度も住民どうし集まって、話し合いやワークショップを重ねています。時には、長老や有識者の言葉に耳を傾け、地域の存続に責任を負った生き方をしている。つまり、住民みんなで、「暮らしの知」の共有を実践しているのです。これらの地域では、景観が取り立てて綺麗というものではなく、細やかに手入れされた生垣や伝統的な農家住宅があり、水路沿いにさりげなく花が植えられ、下草管理の行き届いた里山があたりまえのように存在しているだけです。でもそれが、何にも増して「美しい」のです。

 社会変化によって美しい景観が壊されているように見えるのは、どうも表面だけであり、景観を内部から崩壊させているのは、住民の「暮らしの知」の共有に対する意識のなさと「気遣い」のない人々の関係です。

 「暮らしの知」の共有と「気遣い」の精神は、コミュニケーションによって生まれ、教育によって次世代に継承されるものです。よって、美しい景観づくりの持続的な展開に当たって最も必要なことは、住民参加の活動そのものだと言えます。世帯主だけでなく、子供からお年寄り、女性などの幅広い層の地域住民が、地域社会の一員として主体的に景観づくりに参加することが必要となります。さらに、都市住民やNPOなどのボランティア支援組織の参画も得て、それぞれの役割分担に応じ、感性と技術を身につけ、活動に楽しみや喜びを感じつつ、地域の将来の具体的な目標を検討していく取組みが重要となります。

 住民参加活動が適切に行われるために、行政や専門家が、地域住民や国民へわかりやすく情報を提供し、話し合いや勉強会、ワークショップなどの地域づくり手法の技術的な支援を行っていくアプローチも必要です。

 格好だけのシンポジウムを開催するのではなく、子供からお年寄りまで、誰でもが話し易い気軽な地域毎の「話し合い運動」を強力に推進していくべきでしょう。

 住民参加で景観を考え、景観を保全する意義は、「暮らしの知」についての住民の情報共有によって、「なりわい」の理を知ることであり、参加という過程を通して、住民どうしが様々な「なりわい」間の関係を知り、「気遣い」あう精神を生むことにあると思います。

 また、知と心の施策による景観づくりを進めるに当たって、もう一つ重要なことがあります。それは、子供たちの「教育」でしょう。今の世代が「暮らしの知」を持っていたとしても、次の世代がそれを受け継がなければ、景観の将来はありません。以前、ある学校の校長先生に、路傍の花を踏んづけても気づかない子供の話を聞いたことがあります。先生が、「ほら、花踏んでるよ。」と声をかけると、その子は「それがどうしたのって」って聞き返したそうです。環境をよく見るという「自然知」の基本も体得していなければ、自然を「気遣う」精神も宿していない。「暮らしの知」を学べる生活教育が子供たちに必要です。

 最近では、農作業体験などを通して、食と農の繋がり、環境・命の大切さなどを学ぶ活動が実践されていますが、観光のような学習プログラムでは本当の「暮らしの知」は学べないでしょう。家族との時間も大切にしながら、もっと大胆に、社会で実践的に「暮らしの知」を学べる場と時間が必要となっているのではないでしょうか。子供たちは全員一年間、自然と関わる場に暮らし、自分の手で食べ物を生産する作業に従事するぐらいのことを考えても良いでしょう。

 美しい景観を創出するのに、規制や仕組みよりも大切なのは、「知と心をつくる施策」です。

 「暮らしの知」の共有と「気遣い」の精神は、人と人のつながりをより強固にした住民参加活動の推進と「暮らしの知」を体得できる教育の両面から構築されていくことでしょう。

 この精神が宿ることを条件に、「美しい日本の農村景観」は我々の前に姿を表すでしょう。

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