小農主義

 大きな声では言えませんが、実は私は『小農主義者』であります。農業経済学的な観点からとか、国際社会の動きからとか、社会統制としてとか、学問的、政治的に難しいことをいろいろと総合して小農主義だと言っている訳ではありません。また、もちろん小農主義だから、儲かる農業に関心がないということではなく、むしろ小農であることの方が儲かる要素があるようにも感じていますし、景観や文化、国土を守っているのも小農が中心だと思っています。

 小農主義とは何たるかや、それが良いか悪いかの議論は知識人や学者先生に任せることにして、私としては、耳元でささやくように、自信なさげに「私、小農主義者ですが、それが何か」と言うことになります。

 いや、もしかしたら、私は小農主義者ではなく、社会の多様性を信じているだけなのかもしれません。よって、小農だけが良いとも思わないし、大農だけが生き残るということもないように感じでいるので、小声での宣言になるのでしょうか。

 日本の農業政策は、未だに大規模化、工業化を目指し、イノベーションによる生産性の向上によって、農業の存続が実現するかのような社会の流れを作っています。日本の農業の八割は小農でありますが、小農推進の施策が無いわけではないが、ほとんどそこに力点はなく、地域政策とて、大規模化による効率化を目指しているようです。そして、資本主義経済の理屈に何としてもすり合わせたいようです。規模の論理などとっくに破綻していることを知っているのにも関わらず、農業という産業が持つ社会と自然(環境)との複雑系はどうも難しすぎるようで、進む少子高齢化→無人化・工業型生産→AI、ICT、RT(ロボットテクノロジー)→生産性向上→グルーバルな市場→儲かる産業へという簡単で分かりやすく騙しやすいストーリーだけを美しく語ってくるみたいです。

 では、日本の農業にとって小農主義が正しい道なのかというと、それもいかがなものか。今年になってから知ったのですが、2018年11月に国連で『小農の権利宣言』なるものが採択されたようです。これは、農村社会を維持、発展させていくためには小農や家族農業が重要であることを世界に再認識させるための宣言であり、先進国中心の経済成長の理屈と先進国が途上国に対してこれまでおこなってきた開発行為とアイデンティティの損傷からの脱却であるようです。

 圧倒的多数の賛成をもって採択されましたが、当然、アメリカやイギリス、オーストラリアといった先進国は反対にまわり、日本もアメリカを横目で見ながら棄権しました。

 私は、農業だけではなく、人も地域も環境も社会もモノカルチャー(農業では単一的作物生産を指し、広く転じた意味として単一的文化のことを言います)でないことが、人類存続の道であると信じています。だから、どちらかという、多様性主義者または多元主義者ということかもしれません。私の多様性の中には大規模化や工業化も含まれます。考え方はいたって単純です。男も必要だが女も必要、また二分化される意味はない。子供も老人も必要で、働く世代だけの社会というものは無い。ホワイトカラーもブルーカラーも必要、移動したり物を運んだりするのに、大型トラックも必要だが自転車も必要。一軒家もあれば集合住宅もマンションも、低層も高層もあり。当然、鷹も鷲も必要で、ミミズも必要。生物学や生態学的に言うと、リスク緩衝のための多様性になっている面もあるのでしょうが、私の理屈はそんな高度なものではなく、色々あることと互いを顕示することで生き残るための戦いもあれば、認め合うことでコミュニケーションが成り立ち、古きを守り新しきを知り、文化は徐々に変容し、バランスの良い社会ができていくものだと考えるだけです。排他であるかないかも含め、多様であって良いようにも思います。

 農業政策の大きな問題は、極端な偏りの問題ではないのだろうかと思うことがあります。今の農政の動きを見ていると、私は「小農主義」に偏っていたいと思います。ただ、だからと言って、効率化を認めないとか、ICTは必要ないということではなく、少しずつ、それぞれの小農の身の丈に合わせて大規模化の持つ技術やノウハウを切り貼り繋げば良いのだと思いますし、小農であっても、ブランド化も含め、野菜や施設園芸などの高価値品目の導入も視野に入れて、所得向上を目指せば良い。もちろんその逆もあって、大規模農業がすべて効率生産を目指す必要もないのだと思います。問題は安全安心が確保され、地域アイデンティティを崩さないバランスの良い多様性なのではないでしょうか。

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