阪神・淡路大震災から25年

 『阪神・淡路大震災から25年』、新聞と同じような見出しになってしまいましたが、感慨深いものがあります。地震が発生したのは、平成7年1月17日の朝5時46分のことです。

 私は当時、まだ農林水産省傘下にあった農業工学研究所の主任研究官で、つくば市内に住んでいました。農村景観や環境に関する研究を始めて8年ほど経ったところで、特にあの頃は精力的に「農村環境の快適性に関する研究」を進めていましたが、全国のいくつかの地域で、農村づくりの支援として、ワークショップなども頻繁に行っていた頃でした。

 寝起きに、立ったままの前髪を手でなで押し付けながらリビングのソファに座った私は、私の出身地である神戸で地震があったことには全く気付かず、テレビをつけて初めて、たいへんなことになっていることを知りました。

 私の実家は、西宮市の津門というところにありました。阪急今津線の上に高架橋が落ちている映像や神戸市内の傾いたビル、いつも見慣れた第2国道沿いのマンションの3階が完全に崩れて無くなってしまっている光景を見た瞬間、私は完全に希望を失いました。阪神高速神戸線が完全に横倒しになっているあのショッキングな光景も、実家から距離的には離れていましたが、あまりにも見慣れた場所で、赤穂や明石に釣りに行くのに、子供の頃から父とよく車で走った所だったので、あんなに頑強な建造物が粘土細工を壊したみたいにグニャリと曲がりながら倒壊するものなのかと、目を疑いました。木造平屋の私の実家なんか、到底だめだろうと感じたのを覚えています。

 直ぐに、実家に電話をしましたが、固定電話はまったく通じず、どうしたら良いかさえも分かりませんでした。人間、パニックの時はどうもおかしな行動をするようで、なんとなく普通に出勤してしまいましたが、上司にはすぐに実家に向かいなさいと言われ、ようやく我に返りました。その日以降3日間、両親からの連絡がなく、不安を抱えたままでしたが、とりあえず神戸に向かいました。

 記憶があやふやのところもあるのですが、確か、私は阪神電車で甲子園まではたどり着けたと思います。そこから先は今津に向かって歩きました。いや、相当長く歩いたような記憶も残っており、もしかしたら、尼崎あたりから歩いたのかも知れません。途中で、いくつも倒壊した家屋やビルも見ましたが、私の印象としては、すでに屋根に青いシートがかけられているところもあり、復旧への動きは速いように感じました。

 西宮に近づけば近づくほど被害の大きなところも散見され、今津駅前の津門の商店街は悲惨なものでした。火事がなかったのが良かったというぐらいで、建物はその多くが倒れていました。いくつかの倒れた家屋を見ながら実家の前に立つと、屋根は半分傾いていましたし、玄関の扉は開かない状態でしたが、かろうじて全壊は免れたようでした。ただ、平屋続きの両隣は完全に倒壊していました。古くなったので、二年ほど前に屋根をふき替えたのが功を奏したようでした。両隣はたいへんお気の毒でした。

 すでに3日も経っていましたので、家の中に両親はいませんでした。近所の方に津門小学校に避難していると教えていただいたので、生きていることが分かってホッとしながら避難所に行き、ようやく両親と会うことができました。

 父は興奮して、「すごかったで。去年買ったあの大きなテレビが、宙に浮いて、寝ている足元に落ちたんや。下から突き上げるみたいやったで。こいつ(母のこと)が、ふらふらと寝ぼけて仏壇がある居間の方に歩いて行きよったから、こっちや(こちらだ)言うて手を引っ張ったら、その瞬間、仏壇やタンスが全部ひっくり返って、間一髪やったで、死んでるとこやった」と、おそらくは10秒前後の出来事を数分間の出来事だったかのように話してくれました。(ちなみに、父はテレビが大好きで、世に出ているテレビが手ごろな価格になったら、そのうちの最も大きな画面のものを手に入れないと気が済まなかった)

 台所は足の踏み場がなく、玄関は扉が開かず、屋根も落ちて来ているので、庭からも出られず、十時間あまり閉じ込められていたようですが、ようやくレスキューに声をかけられ、玄関をこじ開けてもらい避難所へ行けたようでした。

 両親はどこも怪我はなく、父はいつもより元気に見えたくらいです。ただ、子供の時によく行った古本屋さんはまったく影もなく崩壊し、おいしかった定食屋さんも、何処だったのかも分からないような周りの惨状を見ると、素直に喜べませんでした。

 避難所から戻り、家の片付けを少ししましたが、何から手を付ければ良いのか分からず、戸惑うばかりだった私を見て、父は、「おらんでも(いなくても)いいよ。帰ってええで(良いよ)。お前にはお前の生活があるんやから」と言いました。別に、急ぎや重要な案件を抱えていた訳ではありませんでしたが、実家には2日間滞在しただけで、父に言われるままにつくばに戻りました。あれほど無力感を感じたことは未だかつてありませんでした。

 父はすでに仕事は引退し、西宮の小学校で用務員のアルバイトをしていましたので、そのまま避難所になった学校で、避難者への弁当配りなんかを手伝っていました。何もできない私に代わり、両親のことを心配していろいろと面倒を見てくれたのは、小学校の時の友人の松尾くんとその家族でした。彼の家は私の実家よりは大阪寄りだったので、私のところよりは被災は軽く済んで、その後もいろいろと助けていただきました。ありがとうございました。 

 地元同士の絆は強いものがあり、血縁よりも地縁の方が強いのかと感じました。

 私は冷たい人間なのだろうかと悩み、後々、父にどうして帰れと言ったのかを聞いたところ、父は私にこう言いました。

「おまえは、ここを出て行ってもう10年以上経つ。もうお前の故郷は筑波になってる。俺は西宮、そして神戸も好きや。俺の町や。俺の町の暮らしは俺が作っていくんや。故郷に心がないお前は、帰ってけえへんのやったら(来ないのだったら)、手伝わんでええと思ったんや」

 私は農村づくりの支援をしていましたが、この父の言葉はグサッと心に刺さりました。私の農村づくりは、地域の人たちから見れば、所詮、腰掛になっていて、研究者のエゴに過ぎないかもしれない。農村づくりを支援するなら、先ずは、その地域を徹底的に好きにならないといけない。そこに住みたいと思えるくらいに好きになることが支援の第一歩ではないのかと思いました。

 父は、私以上に農村づくりのプロでした。

 神戸の実家は修繕して元通りになりましたが、また災害があると、私が両親を助けられないと思い、その数年後には、無理を言って筑波に来てもらい一緒に住むことになりました。父は「俺は西宮が好きや、そして神戸や」(おそらくは内山田洋とクールファイブの『そして神戸』がかかっているのだと思う)と言ってなかなか頭を立には振ってくれませんでしたが、なんとか最後は納得してもらいました。 その後父は、茨城県で東日本大震災を経験することになりました。最初の一声は、「テレビ、また買い替えなあかんな」でした。

※写真は、東日本大震災時の岩手県大船渡市吉浜地区の復興のための寄り添い支援。阪神・淡路大震災の反省は意味があったのだろう。なんと、阪神・淡路大震災の時は写真が一枚も見当たらない。私は何をやっていたんだろう。(写真が見つかったら差し替えることにします)

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