ワクチン接種

 ようやくワクチンの2回接種を終えることができました。私の場合、つくば市のホームページからのWeb予約になりましたが、接種券が届いて、2、3日経ってから予約しようとしたら、もう2か月程度はすべて埋まっていて、結局は8月まで伸びてしまいました。

 そもそも、基礎疾患がある上、自己申告だと言われたので、早くから市に問い合わせていたのですが、「そのうちに接種券届きますからお待ちください」と言われ、待っていたところ、基礎疾患の無い妻や息子たちよりも接種券が遅く届いてしまいました。この辺りどうなっているのだろうと未だに不思議です。

 妻は妻で、ネットからの予約がうまくできず、四苦八苦して、更に、副反応に関する報道の様子見をしている内に遅くなってしまい、結局、9月にずれ込んでしまいました。また、息子たちときたら、若者の問題なのか、個人の問題なのか分かりませんが、感染リスクに対する認識も甘く、更に、周りへの配慮の意識も低いのでしょう。「もう少し先でいいや」、「日本製のワクチンができてからでいいや」なんて言っていて、最近になって、若い人も重症化する等の事例が多く報告されてようやく、そろそろ予約しないとまずいななんて言っています。

 もう大人なのだからということで、本人の意思に任せていましたが、親父は大丈夫だったという我が家の実証を以って、我慢ならず、「早くワクチン打った方がいいぞ!」とハッパをかけましたが、最近また、異物混入やら副作用のリスクなどが報道でバンバン出て来て、死亡率のことも気になって、躊躇しているみたいです。

 ここまでお話したところで、今回は、このワクチン接種と死亡に関して、巷に渦巻く多様な情報を題材にして、私が常に主張している『農村づくりにおいては多様な情報収集が重要』について再考してみたいと思います。

 現在の日本の接種率は1回目が58.0%、2回目が47.1%だそうで、国としては、欧米と比べ、出だしは遅れていたものの、今になってようやく追い着きだしたようです。とりあえず、国民はワクチンを信頼していると言って差し支えないのでしょう。厚生労働省によりますと、ワクチン接種を受けた後に亡くなった人は、ファイザー製で、令和3年2月17日から令和3年7月25日までの約150日間で828人が報告されており、これは100万人当たりだと19人、モデルナ製ではさらに少なく、100万人当たり2.2人ということで、がんや心疾患の死亡者数と比較しても、かなり小さな数字と言えます。しかも、『接種後の死亡』であって、因果関係は不明で、『接種を原因とする死亡』とは言われていないし、接種による死亡と因果関係がある例だと、100万人当たり1人いるかいないかだと言われているにも関わらず、報道で、『ワクチン接種を受けた後に亡くなった人』と言われると、どうも多くの人が、『接種を原因とする死亡』と読み間違えてしまうようです。

 日本の一日当たりの全死亡者数は約3800人程度ですから、こんな計算はあまりしたくないし、お亡くなりになった方々のことを考えると、単純に統計値を比較したくないが、150日だと100万人当たりにすると約4500人で、ワクチン接種による死亡者数は死亡要因のほんの一部にしかならない。そもそも、新型コロナによるここ7日間の死亡者数は100万人当たり3人なので、日数が違うので比較しにくいが、もし政府が、ワクチン接種による死亡の疑い例の数を改ざんしたとしても、相当、鯖を読まないといけなくなります。そんなことはまずないのではないか。因果関係そのものが改ざんされていたとなると、それは国を信用できないというレベルなので、日本人を辞めなきゃどうにもならない。

 SNSで情報が拡散すると、発信者が意図しなくても、とんでもない内容に解釈されて大問題になったりするのが今の世の中です。しかも、マスメディアでも、政府ルートや関係者ルートからの情報とSNSでの大衆情報を同時に報道すると、どれが正しい情報で、どこが読み間違えられた情報なのかが分からなくなってきます。その後、新聞を読み、他のテレビ報道も合わせて聞くと、情報は修正されていき、徐々に自分なりの真実に辿り着くのですが、若者も含め、現代人は全般的に、読解力も想像力も落ちているので、情報は曲がった方向を目指し、更に曲げられた情報がSNSで拡散されてしまうのではないかと思うのです。

 何でもかんでもの情報を、多様な情報だとして脳内に取り込んでいれば、情報過多となって、脳も疲弊するのは間違いないし、判断も出来なくなる。それこそノイローゼになってしまいます。国家には絶対に隠したいこともあるでしょうから、隠蔽された事実があるかもしれないと思うことはあっても良いが、最終的には正しい情報を選択し、そこから如何に多様な読み方をしたかどうかが重要なのであります。

 これまで私は、『農村づくりには多様な情報収集が重要』だと主張してきましたが、ここで言う情報とは、多様に曲げられたたくさんの情報ではありません。異なった視点から捕らえられた情報がたくさんあるべきで、不確かな生情報が多種多様にあってもしかたないのです。そして、疑念を抱くデータも含めて、多様な情報を分析した結果は一つでなければ、いや、一つにしなければ、判断に行きつかなくなり、それは情報を分析したことにはなりません。

 農村づくりも、異なった視点から集められた多様な情報だけでは何も起こりません。失敗するも成功するも、その多様な情報を分析して一つの判断を生み出し、実行しなければ何も起こらないのです。と言うことで、『農村づくりには多様な情報収集が重要である』には、もう少し付け加えないといけません。『農村づくりには多様な視点による情報収集と分析力が重要である』としましょう。

 最後に、農村づくりの話に繋げましたが、私が実際に気になっているのは、我が息子たちの分析力であり、最終的に、ワクチン接種についてどういう判断をするのだろうかということです。彼らは、多様に曲げられた生情報に脅え、思考を閉ざされ、夢を描き判断するということに辿り着いていないように見えましたが、私が「早く接種して来い」などと命令したところで、そう簡単に「はい、わかりました」とは言えないのでしょう。自分の脳内で、多様な情報が取捨選択され、分析され、一つの判断に行きついていないのですから。こういった分析力は、自己研鑽して養ってもらうしかないのかもしれません。『農村づくりは住民が自ら考えなければならない』ということとよく似ているようです。

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