国は謝ることを知らない

 国は国民に謝るということを知らないのだろうか。

 対国家間の問題についての謝罪がなかなか出せないのはまだ理解できる。国際社会における自国の立場や威信の問題もあるだろうし、先祖が選択した結果を謝罪によって否定することは、良くも悪くもその時代の国民を汚すことになり、次世代への自国としての誇りを失わせるため、民族の根底を揺るがし、国家存亡にも繋がると考えるのかも知れない。大上段かつ政治的に国粋主義を振りかざす者も、真の愛国者であっても、謝罪はし難いことなのかも知れない。

 そういう意味では、まぁ、しかたないかとも思わないでもない。今日の民主主義のあり方の変化が自国等と言っている世界をいつまで存続させるのかは分からないが、近い内に、地球環境的に考えると自国である以上に地球国人であるという時代になることもあるのかも知れないが、それでも、日本沈没じゃあるまいし、日本民族としての国家が完全になくなることも非現実的なので、それまでは国の威厳を保つことに終始することは悪いことではない。

 しかし、国家権力の根幹をなす政治と官僚体制が国家を形成している国民に謝れないことや誠実に寄り添えないことには違和感を覚える。

 先週から問題となっている国土交通省の『建設工事受注動態統計』のデータの書き換えは、「なんか遠くの話だなぁ。ああ、よくある官僚さんの鉛筆舐め舐めって言う奴ね」なんて思ってはいけない。あれは政策を決定する重要な数値データであるし、そもそも基幹統計と言われる法律的根拠のあるデータなのです。それを書き換えていたことを、「いきなり大きく減らすと数字に大きな影響力があったから」なんて言い訳をすることはあってはいけないのです。政策決定に影響が無いとか有るとかの問題ではないのです。

 新聞報道によると、8年前から二重計上されていたようですし、会計検査院が2020年1月に指摘した後も、そのまま書き換えをしていたということであるし、もっとひどいことは、そのことを国民に謝罪してもいないし、知らされてもいないことです。正に「よもやよもや」だ。

 国民もマスコミも、政治とお金の問題やどうでもいいようなスキャンダルを躍起になって攻撃するきらいがあるが、それは徳のない政治家の資質の問題であって、その徳の無い政治家を選択したのは国民である訳だから、自業自得のところがあるが、データ改ざんなどの問題は、徳の意味さえ失い兼ねない問題であって、国民が本当に正面から切り込むべき問題だろう。

 岸田総理は、「大変遺憾で再発防止に努めなければならない」と簡単に言うが、この問題は、単に国交省のちょっとしたルール違反なんて問題ではないことを含めての再発防止策を政権として取り組むのだと述べるべきであるし、先ずは、最初に真の意味での謝罪があるべきではないのか。真の意味での謝罪とは、やったことに対する国会答弁のことではない。何が本質なのかを国民に説明することだ。

 財務省の森友文書の改ざん問題も、『認諾』という卑怯なやり方で、体裁だけ謝って、本質問題に対しては一言も謝らないし、これも人の命を何だと思っているのか。まったくもって人の心に寄り添ったものではないと言えるだろう。そもそも統計データの改ざん問題は、2018年に発覚した厚生労働省の「毎月勤労統計」の時に一斉点検をしたにも関わらず、今回の問題も洗い出せていなかった訳だし、会計検査院の見張り機能もかなり適当みたいだし、政府の統計改革推進会議の対策も周知されていなかったことになる。

 「言わせてもらえば」の9月6日の「ワクチン接種」の記事で、私は「もし政府が、ワクチン接種による死亡の疑い例の数を改ざんしたとしても、相当、鯖を読まないといけなくなります。そんなことはまずないのではないか。因果関係そのものが改ざんされていたとなると、それは国を信用できないというレベルなので、日本人を辞めなきゃどうにもならない。」なんて簡単に言ってしまったが、今回の問題が意図的ではなかったとしても、これほど頻繁に改ざんが発覚するなら、こりゃ、もしかしたら本当に日本人辞めなきゃいけないほど改ざんしているかもしれないなんて思わざるを得ない。

 こういう問題の解決は、実は、体制やルールのすげ替えでは何も解決しないのです。『嘘の上塗り』、『嘘に嘘を重ねる』なんて言葉もあるように、人は一旦嘘をつくと、その嘘を隠すために更に嘘をつかなければならなくなり、重ねている内に罪悪感そのものが無くなってしまう習性があるのです。兎に角、政治家も官僚も嘘をついては、民衆はバカだからと、政治家はのらりくらりと言い訳をして、そのうちに国民の怒りの感情が収まるのを待つ戦法、官僚は理屈に理屈を重ねて国民を煙に巻く戦法で乗り切ろうとする。官僚としての誇りが全く感じられない。政治家の命令でやったとするのならなおさらだ。これは、官僚が国家権力の執行組織の駒になっているからであって、組織の駒である以上に一人一人の徳で以ってより良い社会が実現されるのだと強い責任感を以って業務を遂行しようという認識が無いから、こんなことになるのである。

 最初の嘘をつく時点での個人個人の意識の持ち方が重要で、「不正があった場合は、隠さずに言いましょう」なんてルールを徹底しても、心根が入れ替わらなければ、徹底したことにはならない。官僚は業務と自己の利害に終始せずに、常に自分たちの持つ権力の大きさに慄き、国民の僕として寄り添う姿勢を持ち、自分の内側から湧き出る徳を以って任務に当たらねばならないのである。方便の嘘を否定しているのではない。寄り添えない嘘を批判しているのである。幼稚園で習ったろう、間違った時は、先ずは「ごめん」だ。国民に謝れない国なんて時代が古すぎる。先ずは、誠実という徳を鍛え、謝罪の本質を性根に叩き込むことが必要だろう。

 今は、「どうも済みませんでした」と口を尖らせて言い放っているようにしか見えない。

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