子供たちの夢を侮ってはいけない

 子供の日も過ぎました。コロナ禍でまったく動けなかったここ2年間は、仕方ないので、家で遊び、出かけたとしても近場だったことでしょうが、今年は多くの子供たちが遠出をして、家族と共に良い思い出づくりが出来たことでしょう。もちろん、様々な都合で、そうではなかった子供たちもいると思いますが、少なくとも、この2年間よりは外に出る機会は増えたことと思います。

 子供たちは、様々な経験をしながら、社会の多様な人々と関わりあい、自分を磨いて、大人になっていくのだと思いますが、大人になっていなくたって、子供は子供で一人の人格です。それなのに、大人たちは子供たちの意見や考えを、「所詮、子供の考えだ」、「子供の言う事だから」と決めつけて、まともに向き合おうとしないことがあります。

 昔、関西のとある農村づくりにおいて、地域リーダーの方に、子供を率先して農村づくりに参加させるべきだと指導したところ、こんな意見をいただいた。「山本さんに、農村づくりにもっと子供を参加させよ。ワークショップなんかしたら良いんだよと言われたので、子供の集落環境点検をしてみたけど、子供たちは叶わない夢ばっかり言って、現実味がなく、やっぱり使い物にならないな」、「子供たちは楽しかったかもしれないし、教育にはなったと思うけど、とても農村づくりには使えないな」と言うのです。

 一人の子供が「ぼくらの町は、子供の遊ぶところが少ないし、遊園地まで遠いんで、遊園地がほしいねん」と発言しても、「そんなのできる訳ないやんか」と答えてはいけない。この言葉で、子供たちは口を噤んでしまう。

「それ、お金がかかるし、町にもそんなお金ないけど、どうしたら、お金なくてもできると思う」と聞いてみる。

「ジェットコースターとかは我慢するけど、メリーゴーランドだけでも欲しいな。メリーゴーランドだけやったらなんとかならへんか」

「メリーゴーランドってなんぼするんやろ」

「中古で余っているのあるやんか。それ貰って来ればタダちゃうか」

「運ぶのにお金いるで。それも高いんちゃうか」

「ほんなら作ったらええやん」

 生産的な会話かと言われると、そうではないかもしれないが、私は、こういう会話の中に、様々な実現へのヒントが隠れているものだと思う。大人だと、最初から遊園地を作りたいなんて言わないし、もし、小さな子供を育てている若い奥さんが、「子供たちのためにちょっとした遊園地ができないかな」なんて言うようなら、リーダーとその取り巻きは大笑いして、「そんなのできる訳ないやんか」と答え、そこで議論は止まるのです。

 この集落とは別のところで、ある子供が、農村づくりワークショップの中で、集落の地図の上に「観覧車」の絵を描いて、発表した。

「集会所の前の田んぼのところに観覧車を作って欲しい。ここやったら、家から近いし、田んぼも山も川も全部見渡せるし、ええ景色や」

 その田んぼをやっているD.幸雄さんがちょうどワークショップに来ていて、それに即反応した。

「なんや、わしとこの田んぼかいな。そりゃあかんわ。ここ一番おいしいお米できる土地やし、幹線水路の傍は止めとこうや。別のところ考えてぇな」

 これは良い答えである。地元の特徴を教えながら、観覧車づくりの意見は否定していない。観覧車が本当に作られることが大切なのではない。自分たちの意見が親身に聞き入れられること、考えればできるかも知れないと思えることが重要である。子供たちも、そんなに簡単にはできないということはよく分かっている。常識に囚われ、時間に縛られ、立場に雁字搦めになっている大人たちが、最初から何も言わないのよりも、子供たちが社会の縛りを取っ払って夢を語ったことを大切にすべきである。

 こいのぼりが群青の空に泳ぐ姿を見ていると、子供たちの夢が空高く登っていくかのように思う。農村地域の子供たちは、地域の良さをよく知っている。そりゃ、高校を卒業するまでずっとそこに住んでいたのだから。「おら、こんな村嫌だ~」と言いながらも、都会へ出て、疲れ、振り返るのは、多感な時代を過ごした地元のことである。

 十数年経ってから、D.幸雄さんの田んぼに観覧車を建てたかった子供に、東京で会うことがあった。「東京はどうだ」と聞いたら、「ぼちぼちやな。まだ俺が子供の時に描いた全町望観覧車計画の実現が残っているので、そのうち帰るよ」って言っていた。

 子供たちの夢を侮ってはいけない。幸雄さんはちょっと覚悟しないといけないかもしれない。まぁ、今なら私が「いい田んぼ潰すなよ」ってしゃしゃり出るかもしれないが、これは老害になるのだろうか。

関連記事

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。