女性ならでは

 9月13日に発足した第2次岸田内閣の組閣人事の首相の記者会見での発言で、「女性としての、女性ならではの感性や共感力を十分発揮していただきながら仕事をしていただくことを期待したい」という言葉が飛び出して、SNS上で大炎上しました。

 「女性ならでは」という表現で「女性」を一括りにすることについては、女性ならできて当然というステレオタイプな考え方を助長するものとされ、以前からも問題になっていて、内閣府の男女共同参画局が出しているアンコンシャス・バイアス事例集にも上位のバイアス問題として位置付けられています。

 それにしても、首相もわざわざ火中に栗を投げ込まなくても良いのに、この時代遅れな表現を誰か側近が気づいてやれなかったのかという風には思います。しかし、彼を擁護する訳ではありませんが、前後の話を聞けば分かるように、彼は女性をステレオタイプに填めてもいなければ、差別的にも扱っていないので、こんなことに噛みつくメディアや野党議員の読解力もどうしたものか、もっと他に指摘することはあるだろうにとも思います。

 確かに、十把一絡げとしての意味で「女性ならではの感性」と言うのは良くない。ジェンダー平等社会というのは、性的にどんな差別もあるべきではなく、「男性ならではの」とは言わないのだから、すでにそこでもう差別しているのだと言う意見もよく分かります。

 それじゃ、言い方を変えて、「男性では気づけない点を、別の視点から指摘して責務に当たって欲しい」と言えば良かったのかというと、今度は、「男性は気づけない」というステレオタイプに填めていることになり、男性差別ではないかと思います。何故「男性としての感性を生かして」とは使われないのか、何故、女性だけが「女性として」と言われるのかと言うと、男性は差別化されるような感性がないから使われないのであって、「女性として」と言った場合、一括りにしたステレオタイプな見方よりもその感性に多様性を感じるからです。まさか、「男性として(の力強さに期待して)」なんて言うと、ハマコウのバリケード破りに期待するみたいではないか。

 しかし、もしジェンダーバイアスが疑われるような表現を絶対使わないということなら、岸田首相の発言は「それぞれの大臣にはそれぞれの分野に精通した人を任命させてもらいました」と一言で終わってしまって、会見は少しも面白くありません。長く関連政策に携わった人もいれば、子育て経験での苦労をした人もいるだろうし、医者現場で問題に直面した人もいて、それぞれに多様な経験を持つ多様性人事であるので、その中には、女性もあれば、学者もいれば、医者もいれば、年寄もいるのであって、性差・年齢差も含めてそれぞれの個性を表現してはいけないということはないはずです。

 でも、残念かな今の時代は、首相の発言はバイアスのかかった表現として認識されてしまうので、要らぬ時間を費やさないためにも、もう少し言い方は考えて欲しいとは思いますが、言わんとすることは、一人一人の任命大臣の女性として生きて来たこれまでの体験から得られた能力や感覚を、「感性」と表現しているのだと聞く側が解釈したいものです。

 「差別」と「差別化」は異なるものです。「差別」は人権問題ですが、「差別化」があるからこそ多様性が意味を持ち、人権は保護されるのだと思います。でも、どうも現代社会はこれを勘違いしているように思います。もし、人になんの隔たりも差もないのであれば、能力だって差別してはいけないということになってしまいます。どうしようもなく、女性であるというだけで能力そのものが男性とは違っています。例えば、いくら男性が頑張っても、子供は産めないので、子供を産むと言うことの大変さを、身を以って体験するのは女性だけです。その体験から得られる気づきや能力や感性は、どうしても子供を産めない男性には育たない。こう言うと、おそらく今度は、ジェンダー平等推進派からすると、産まなかった女性と産んだ女性を差別していると言うのだろう。でも、おかしい。女性議員はよく選挙で、「私は二人の子供を育ててきました。この子育ての経験を政治に行かしていきたい」と売り込むではないですか。都合の良い時だけ、性の多様性を楯にして、都合が悪くなると、性差別の槍を振り回しているようにしか思えない。私は子供を産まなかった女性を差別視なんてしてやしない。なぜなら、産まなかった女性も重要な多様性の中にあり、産まなかった女性としての能力や感性が培われるものだからです。

 「女の子は女の子らしく」には、「女の子らしく」の所に女性は控えめで、おしとやかであるべきというステレオタイプがあるのでよろしくない。「男だから泣くな!」とも言ってはいけないのであって、男の子、女の子の差なく「あなたらしいね」とか、「もう泣くな」だけにすべきだそうです。教育的には、男の子らしく、女の子らしくと言うだけでその子の個性を失うことになるらしいのですが、その育て方は返って人の多様性を無くすことになるようにも思います。

 小学生の頃、友達と喧嘩して泣いた時、母親に「男の子がいつまでも泣くんじゃない!」と怒られたことがありますが、この場合「男の子」として差別されたのではない。事実は母のバイアスであったとしても、この言葉によって寧ろ、我慢強い男という自分なりの理想がアイデンティティの一つとして立ち上がり、人格が形成されていったと思います。そうなれたかどうかは別として。これを言われた私が、「男の子だからというステレオタイプに填めないで」って親に言い返したら、親は子の人格形成と家族の個性形成には関われないことになる。親はどこかで知らぬ内に、ある程度の偏見を以って子供の人格形成に関わっているし、関わってしまうものなのです。親として言えることが、「泣かないでね」だけで終わってしまうことで本当に良いのでしょうか。少なくとも、私はそんな無害な母親は嫌だ。

 「女性だから」という性差別と、「女性だから」という多様性は別なのです。同じ表現でも、全体の文脈を見て判断したいものです。

 au携帯のCMで今年ブレイクした「あのちゃん」が、「若いね」って言われて、「”若い”でまとめないでください」と言うシーンがあります。”若い”というステレオタイプに抵抗があり、”若い人”だっていろいろあるんだと言いたいのだろうけれど、それは”若い”と言う差別ではなく、能力なのだから、それを逆に利用しないといけないのではないのか。ちょっと古いが、歌手の藤圭子さんは♪女ですもの恋をする♪と歌った。女は恋に溺れる生き物だって解釈するから性差別になる。男だって恋をするだろうといちゃもんを付けるんじゃなくて、「女ならでは恋」と胸を張ってもいいんじゃないのだろうか。

 国民は今、ジェンダー平等に神経質になり過ぎていると思います。「女性ならでは」という差別化の重要性をよーく考え直した方が良さそうです。

※藤圭子さんは宇多田ヒカルさんの母親。♪女ですもの恋をする♪は「女のブルース」(作詞:石坂まさを 作曲:猪俣公章)の歌詞。♪女ですもの夢に酔う♪と続く。

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