暮らしの知を地域活性化に繋げる(9)

9.とどのつまり 極意は

 今回はこの講座の最終回となりますので、これまでのことを整理することにします。今回言いたいことをものすごく簡単に喋ると、「農村づくりの真の目的は経済の活性化ではなく、農村を愛する心の活性化であり、そのためには住民が暮らしから学んだ知を元に、社会や環境を正しく共有理解し、議論し、その果てにあるべき農村地域の姿を創造することではないだろうか」ということになります。もし、これだけで私の言いたいことを理解していただけるなら、この後のダラダラとした文章は読まなくてよいかもしれません。お付き合いいただける方は、是非最後まで読んでみてください。

 私の30有余年に渡る農村づくり支援の経験を踏まえて、「農村づくりの極意は何か」と問われると、『とどのつまり、住民全員参加でとことん議論を尽くすことだ』という回答をせざるを得ません。只、こういう単純な回答を示すと、多くの方に、「そんなことは分かっているが、時間がかかり過ぎる」と言われます。そして、「とことん議論しても、何も答えがでないことはあるじゃないか」とか、「たくさんの意見や提案が出て、まとまるものも纏まらない」と言い返されます。

 その通りであります。とことん議論を尽くすと、返ってぐちゃぐちゃになって、悩み悩んで前に進まず、結局、首長や主立ちの鶴の一声で良かったのではないかということは多い。しかも、多くの地域では、それで十分活性化が成立しています。しかし、再度ここで明確にしておきたいことは、私の言うところの『農村づくり』は、一般に言われる地域づくりとは異なり、こういった「結果」を生み出すための方法ではないということです。だから、「鶴の一声」なんて笑止千万。

 本講座の『暮らしの知を地域活性化に繋げる』は農村づくりの本質を説明しようとした講座なのですが、おそらくは、まだ理解できない方も多いでしょうし、最初から読み返しても、分かったような分からないような、煙に巻かれた感じの方もおられるでしょう。一所懸命、ご理解いただけるよう努力しているのですが、私の説明の仕方が下手なのか、悪いのか、将又、間違っているのか、結構苦労しています。

 一般的に、地域づくりでは、多くの方が結果を求められているように思います。どんなやり方であっても良いから、何かをすれば、「金になる」とか、「有名になる」とか、「人が集まる」とか、「環境が良くなる」とか、見える成果が表れるものではないかと思われるのですが、私の追及する『農村づくり』はそういった派生的に見える成果もありますが、どちらかというと見えないところが鍛えられて成果となるので、見える成果の実感は薄いかもしれません。だから理解されにくいのでしょう。

 人は見返りを求めるものです。このことを見下したり、人の世は浅ましきかなとは思っていません。私は聖人でもないし、霞を食って生きている訳でも無いので、見返りは欲しいとは思います。しかし、それよりも、住民一人一人の『暮らしの知』が鍛えられた上で、社会と環境を住民みんなで『共有認知』し、そこを起点として議論を重ね、得られた成果なのかどうかということの方が大切だと思っているのです。

 これまた、ここまで言うと、「そんな理想的な地域づくりは無理では?」とか、「住民一人一人がそこまで信念を持てないだろう?」とか、「実際には、誰がこれで良しとするのか?」とか、「あなたが手掛けた農村づくりで、それが出来た地区はあるのか?」と次から次へと、異論・反論・オブジェクションの嵐となります。

 そこで、私は開き直る。「そんなのできる訳が無い」、「完璧にできた地域なんて無い」、「それで何が悪い」と。只、私は、農村づくり支援の経験の中で、いくつかの地域でその努力の結果から、地についた活性化が一定のレベルまで達した地域を知っているし、未熟ではあるが、それを継続しているところもあります。もちろん、活性化の成功に酔い痴れてしまい、暮らしの知による共有認知を忘れ、只々、一部の住民だけで経済活性だけを伸ばしているところもあります。

 私はこの農村づくりの思想を日本全国に広めようとは思っていません。なぜなら、「自然知」「伝承知」「身体知」の3つの『暮らしの知』を鍛え、地域環境の共有認知を促進することは、特別なことではなく、人間が普通に生きていく上で、至って当たり前にやっていることだからです。

 私がやっていることと言えば、高度経済成長期において自然と人とのつながりを忘れてしまった時に、また、けたたましいスピードでの社会生活の変革が起こる現代において、環境や生活を考える間もなく突き進んでしまい、住民が求めている暮らしを失ってしまった時に、「暮らしの知を鍛えながら、ゆっくりと地域を見直してみませんか」と声を掛け、名ばかりの住民参加や形骸化したワークショップを改め、「暮らしの知を鍛えるためのツールとしてワークショップを活用すると良い流れを生むでしょう」と提案しているだけです。

 暮らしの知が向上したかどうかを今評価することは困難です。5年、10年続けたところで効果が見えてくるものです。しかし、私がこれまで十数ヵ所で取り組んだ地域づくりの支援活動を通して、時間はかかるが、暮らしの知が向上することによって、事業ベースではなく、自主的な活動の展開が永く望めることは確証を持っています。

 今、分断の種が世界中にばらまかれ、民主主義の根幹が揺るがされています。この要因は、人の脳を超えつつある情報社会、コミュニケーションの弱体、格差社会(教育、経済)、気候変動、エネルギー資源不足などによる不安感が根底にあると思いますが、私はその本質的な課題は、ひとり一人の人間が、『暮らしの知』を鍛えられず、知を通した社会・環境の共有認識の力が落ちていることで、議論を尽くそうにも尽くせなくなっていることではないかと思うのです。温暖化を認めない人は、認める人と初めから議論にならない。みんな、複雑怪奇になった世界の現象に脳が順応せず、不安を覚えるので、どっちか寄りに身を置くこと、同族主義で纏まることで安心したくなってくる。残念ながらどちらにも本当の答えは無いのです。あるのは、自分自身がどう社会と環境を見つめることができるかと共有認識による議論の歩み寄りだけなのです。

 世界に欲しいのはマクロな「知」の体系ではなく、暮らしとコミュニティの最小単位で得られる「知」であり、しかも「知」を通して共有して認識された社会と環境への働きかけです。農村レベルの小さな単位での民主主義が成り立たずにいて、世界の分断は解消しないのではないかと思うぐらいです。

関連記事

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。