「村じまい」という振興

 『振興』という用語を辞書で調べると「物事が盛んになるようにすること」とあります。学術の振興、文化の振興という言い方もあるが、産業施策全般において使われることが主であろう。

 私が提唱している「農村づくり」においては、この「振興」という用語はなるべく使わないようにしてきました。何故なら、「農村づくり」と「農村の振興」は異なる概念だからです。「振興」と言う用語を使うと、どうしても、現状よりも活性した状態になっていることを言っているように感じますが、「農村づくり」は農業経営の活性や地域の観光地化に向けた活動の増進等を言うのではなく、多様な住民の合意形成のあり方やプロセスを示すものです。ですから、場合によっては「現状のまま何もしない」という選択があっても良いし、人が減っていくことに歯止めがかからず「村じまい」せざるを得ないような場合でも、それをマイナスに捉えず、農村づくりをしたと言うことになります。

 「村じまい」は農村を創ってもいないのに、「農村づくり」と表現するのはおかしいじゃないかと言われるかもしれませんが、集落の「最期」の形を創る(作る)過程と解釈してもらいたいと思います。「農村づくり」において重要なことは、何に至るかではなく、そこに至る過程において、参加する住民が納得できるようにしたり、思い残しが無いようにしたり、多様な住民が多様性を保ったまま満足できるような工夫をすることです。

 でも、「もうこの集落は成り立たないですね、何をやっても活性化しないですから、潔く集団移転しましょうよ」なんて、簡単に言ってはいけません。これだと自殺幇助みたいではないですか。そうではないのです。もう一花咲かそうか、どう生きようか、そして、それでもダメなら、どう畳んで行こうかと、とことん考え抜き、最終判断を住民自身が合意して選択し、決まった目標に向けて推進することが大切なのです。

 人口が減り、産業だけではなく、生活についても立ち行かなくなった集落の最期を、なおざりにしたり、しかたなく整理するのは「村じまい」ではなく、「村つぶし」になります。しかたなくではいけないのです。人の「終活」もしかたなくやるものではありませんし、決して寂しいものでもありません。人生を振り返り、記録し、残りの人生を有意義なものにするとともに、最期には身の丈に合った尊厳のある儀式を執り行うことで、その人が生きていたという「証」と「誇り」を後世に残るようにすることであるように、集落の最期もその歴史をその地に刻んでいくものだと思うのです。

 集落が最期を迎えるか、まだ闘えるかについては、現状をある程度科学的に分析しながら選択することもできるとは思いますが、大切なのは根拠よりも、住民の納得と合意です。戸数が減るとたいへん難しい決断となり、行政の調整支援もままならなくなりますが、それでも、そこを協働して話し合っていくことしか道はありません。それをするのが「農村づくり」ということになります。

 話し合いの方向としては、最後の一人になっても締めないという考え方もありますし、外部から移住者を求め存続するやり方もあります。また、集落自治が機能しなくなったところで、住民と行政が互いに確認しあって、幸せな仕舞い方を計画し、実行していく考え方もあります。更に、人に輪廻転生の死生観があるのと同様に、集落も再復興する考え方もあります。田や畑は放棄されると、次第に野山に戻ってしまいますが、美しい野山に残していく方法だって考えてみたいものだし、世代を超えて、整えながら土地を放棄していけば、長い年月の後の再復興時には、新しい集落にとっての機能的な土地基盤となるかもしれません。ようするに、何も考えずに、合意せずに最期を迎えることが不活性なのであって、努力した住民の意思がそこにあったかどうかが重要なのだと思います。

 昔の話ですが、山口県の山深い集落で、すでに家が数戸しか残っていない集落の長に、「農村振興は諦めて、街中に引っ越しますか?」と聞いたら、「もう十年もせん内に、今残りよる住民はみんな死んじょろう、大事なこたぁ、みんながここで楽しゅう死ねて、ここに集落があったことが後世に伝わることや。諦めちょるんじゃのうて、これがうちらが目指しちょう農村振興じゃけぇ」と言われました。

 今一度、「振興」の意味を考えてみるに、集落が「村じまい」として、歴史を整理し、記憶の保全に邁進した場合は、これは「村じまい」という物事であり、それが盛んにおこなわれれば、それも「振興」と言えるのかも知れない。「村興し」がプラスで、「村じまい」がマイナスだと考えているから「振興」ではないと思ってしまっているだけかも知れない。

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