不適切にもほどがある

 はっきり言って、私もおそらくは、心の底にある程度の差別感情を持っている人間であると思います。誰しも差別感情というものはあるのだと思います。例えば、ここで私が「あの人は’聖人’みたいな人だから」と言った瞬間に、それは、徳が高く、高潔な人という差別をしている訳だと思います。この言葉を相手に対して放った場合、卑下してもいないし、寧ろ賞賛しているのだから差別ではないと言えるかというと、そうではない気がします。言われた本人がそんな風に思っていない場合では、取りようによっては上位に見られることで、バカにしているように感じ、差別を感じることになり兼ねません。上に見ても下に見ても、差別化したとたん、自分の意思とは関係なく差別の感情は湧き出てしまうものなのです。このことは、「女性は素晴らしいと言っただけでも」文脈によっては成立してしまう訳です。大切なのは、差別を感情表現するのではなく、差異を敬う感性をどう表現するかではないでしょうか。

 亡くなった母のことを悪く言うつもりはないのですが、私が小学生の頃に良く母が言っていて気になった言葉が「勉強せーへんねやったら、百姓にでもなりなさい」と言うものだった。あの頃からものすごく違和感があって、百姓は頭が悪いと言っているようにしか聞こえませんでした。大学で農学部を選んだ時も、「あんたを百姓にするために育てたんやないよ」と言って強く反対されました。法事なんかで、父も親戚の人たちに「坊ちゃんは大学何学部行ったの?」と聞かれるといつもごにょごにょと口ごもって、「なんか知らんけど、農学部?」と言うのです。私は心の中で、「農学部がそんなに恥ずかしいんかいっ!?」と叫んでいました。もちろん、学費を出してくれるのは親ですから、懸命に説得はしましたが、農学部に通い出してからも、なかなかこの想いは伝わらないようなので、なんとか頑張って勉強して、企業の奨学金を確保し、学費の免除も取得し、なるべく親の金は使わないようにして4年間を過ごしました。ちょうどその頃、家の商売も傾きかけていたので、奨学金を貰うのは、家計の負担を軽くする目的もありましたが、私としては、親の農業や農学に対する偏見から逃れるためでもあった訳です。

 今でも、昭和の高度経済成長期をまっしぐらに走って来た人たちの中には、農業や農村というものを、最初から下に差別してみる傾向があるように思います。今回の静岡県の川勝知事の新規採用職員への訓示で述べられた『県庁はシンクタンク。野菜を売ったり、牛の世話をしたり、モノを作ったりとかと違い、皆さまは頭脳、知性の高い人たち』の発言は、彼が如何に職業差別はないと弁明したところで、やっぱり心の奥底に農業者やブルーカラーに対して差別感情を持っていて、自分の方が上だと思っているから出る言葉であるのでないでしょうか。

 上に立った人の上級国民意識というものは、自らは気づかない悲しき性みたいなものですかね。未だに、「農家は頭が悪い」と言う人が多いように思います。反論して、そんなことはないといくら私が言ったところで、そう言った偏見を持たれている人が数時間の説得で、心を入れ変える訳が無いし、説得が成功して、「なるほど農家も頭良くないとできないな」と言い直したところで、心の奥の奥にある差別感情を取り除いたことにはならないでしょう。直面する議論が進まないので、しかたなく、そこは私も「はい、はい、そうね」と言って、聞き流して、別の話へ進むことにしていますが、私の心の中はその間ずっとむしゃくしゃして、腹の虫が治まらない。

 最初に言ったように、私自身にも差別感情はあります。また、こうしてなんでも知ったかのように喋るところで、自分は学識者であるという差別感情をむき出しにしているのだと思いますが、知性とか知能とかというものをどうして成績や学歴で決めつけるのか自体はよく分かりません。先日、楽ちん多面の操作指導をある農家の方にしていたら、パソコン使いの能力がちょっとあるだけの私に向かって、「先生はものすごく頭いいですね。わしは先生と同い年なのにパソコン全然わかりませんわ」と言われた。その人は美味いトマトを作らせたら天才的で、私などおそらく十年以上勉強してもその域に達しないように思うほど知的で繊細な生産活動をされていて、それこそ、「○○さんは頭いいですね」と言い返したいくらいです。同じ66歳のおやじだとみてくれないことに寂しさも感じます。

 農業は総合知性に長けていないとできない職業です。植物学だけでなく、気象学、土壌学、物理学、経営学、経済学、歴史学・・・等の総合的知性がなければ、美味いトマトは実らないのです。農業者を下に見る人に「一度、絶品トマトを作って見な!」と言いたい。普通のレベルのトマトはある程度作れますが、美味い商品にするにはそうとう頭が良くないとできない。いや、知的センスがないとできないと言うべきか。だから、「百姓なんか」とは絶対に言えないのです。言えるはずがないのです。

 川勝知事を擁護し、彼が言う必要のなかった「野菜や牛・・・」の部分を敢えて文言に加えて言い直すとするなら、「県庁はシンクタンク。野菜を売ったり、牛の世話をしたり、モノを作ったりとかの総合的な知的生産活動とは違い、皆さまは政策実行集団として専門的に磨いてきた知性をさらに磨きをかけて静岡県を素晴らしい県にして欲しい」ということになりましょうか。でも、上下差別の感情が元々あるものだから、ついついあの発言になってしまったと私は理解しています。言い間違いや言葉足らずでは済まされないのです。

 リーダーたる地位にいる人なのだから、上下差別ではなく、知性の差異を尊重すべきですが、まぁ、長いこと県政のトップにいたので、裸の王様になってしまっていたのでしょう。人に差別感情はあってもしかたありませんが、差異を表現し、それぞれの知性のレベルに個性を持たせ、敬うことが『適切』であって、心の底を見せて、上下差別で表現した瞬間に、『不適切にもほどがある』となるのではないでしょうか。

※先日、名古屋を訪れた時に、トヨタ産業技術記念館にも寄ってきた。往年の名車がずらりと展示されていて圧巻でした。車の開発から販売網の構築時にはブルーもホワイトもなかったろうに。

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