オリンピックで号泣

 アスリートたちの人間ドラマをエンターテイメントとして見るか、リアルとして見るかでオリンピックの魅力は随分異なってきます。「あれらはすべてリアルでしょう。だって無理に作ってないのだから」と皆さんは言われるかも知れませんが、私は報道された段階ですでにエンターテイメントが内在していると思っています。「日本人初の快挙です」とか、「日本に○○年ぶりの金!」とか、「栄光の架け橋だ!(ちょっと古いか)」とアナウンサーや現地リポーターが声を大にして叫ぶ瞬間に、さらに様々なコメンテーターが感想や見解を述べると、映像も文章もナショナリズムに煽られたエンターテイメントの域に閉じ込められていると思っています。

 国民は、おそらくは単純にこのエンターテイメントを楽しんでも良いのでしょうが、人が関わっているドラマである以上、その中からリアルの部分だけを選択して読み取ることも大切だと思います。本当の意味でスポーツをリアルとして見ることが出来るのは、スポーツ競技をしているアスリート本人とその周りだけになってしまうのかもしれません。それでも、それ以外の人もなんとかリアルを選択する目で人間ドラマを紐解くことができれば、オリンピックというドラマをさらに魅力あるものにしてくれると思います。

 そんな中、今回、柔道52kg級の阿部詩選手の敗退後の号泣の映像はとてもショッキングで、我々にオリンピックの見方について様々なことを示唆してくれました。その後、この行動に対してはSNSで誹謗中傷があり、あの姿を映し出して良いのだと言う派と試合の進行を妨害してまで泣くものじゃない派等が乱立し、ああでもないこうでもないとネット上で議論を交わし、社会問題となっています。

 先ず、絶対に言えることは、どんな状況であっても、個人を誹謗中傷して攻撃することは許されることではないということです。ただ、あの号泣をどう捉えるべきか、どう捉えてあげるべきかという冷静な議論はあっても良いのかも知れません。その時に大事な視点となるのは、国民は闘いの何を見ているのかという問題、すなわちエンターテイメントとして見るのか、リアルを紡ぎ出して見るのかではないでしょうか。そして、自分なりのリアルの切り出し方こそが未来の社会を作る原点となると私は思っています。

 そして結論から言わせてもらえば、SNSでのつまらない言い合いを見ていると、日本人自体がエンターテイメントからリアルを自分なりに紡ぎ出す力や人間の本質を追いかける力そのものが弱体化してきているのだろうと思うのです。簡単に言うと、多くの人が求めているのは一つ一つの刺激のあるエンターテイメントのシーンであって、そこに至るまでの過程や歴史を包含したリアルを読み解く力が無くなってきているということではないだろうかと思うのです。「号泣してもいいじゃないか」も「号泣は恥ずかしい」のどちらも、人に対して意見することではなく、自分の中の人間ドラマの見方に返す問題で、自分はあの場の彼女のリアルにどんだけ近づけただろうかと思うべきです。

 どんなメディアも、業界上はエンターテイメントに番組を作らざるを得ないし、人が感動するだろうというステレオタイプのシーンを何度も何度も放送して、ナショナリズムを煽り立て、浅い思考の訓練を強いるものです。これは報道としてダメとはいうことではありません。一つの報道の在り方です。ただ、小説を読むときにはじめと最後だけ読むみたいな感じ、テレビドラマを見る時に、第一回と最終回だけ見る感じ、SNSの見出しだけ見る感じでしかエンターテイメントを楽しめなくなり、メダルの数だけを追っている人間しかいなくなるのは由々しき事態なのだと言いたいのです。そんな見方ではリアルには辿り着かないように思うのです。これが続くと、最終的には人が人と社会や環境を共有認知する力を失うことに繋がり、お互いは理解されなくなってしまう。それは人類の分断の原点となり、多様性の喪失につながるのでは無いでしょうか。

 試合後のインタビューや専門家の解説などで、ある程度、人間のドラマは伝えられますが、なかなかそれだけでは分からないものがあります。しかし、阿部詩さんの号泣のドキュメントは、ずばりあのシーンだけで、その中にあるすべてを見せてくれました。彼女はりっぱな柔道家であり、しかも東京オリンピックの金メダリストであり、普通の人では理解できないほどの苦境を乗り越えて今を生きている人であるはずです。動けなくなるほどの号泣、次の試合に迷惑をかけてしまうまでの押さえきれない弱さなのか、悲しみなのか、苦しさなのか分からないが、そういった感情の爆発を感じているうちに、それが良い事かとか悪い事かなんてことは吹っ飛んで、一人の人間のリアルがそこに見えてくるはずです。SNSで誹謗中傷なんかしている場合ではないし、それに反論している場合でもない。私たちが見るべき魅力あるオリンピックは、彼女が与えてくれた映像を通して自分自身の人や社会を読み取る感性を磨き上げることにあるのではないだろうか。私はそんな風に思いました。皆さんは如何ですか。あの号泣をどう見ますか。

 これらは、農村づくりに関係ない問題ではありません。農村づくりおいても、人間ドラマのリアルを選択する見方をすることは「身体知」の重要な鍛錬です。共有認知を進める農村づくりに繋がると思って一度考えてみたらいいと思います。

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