農村づくり支援のきっかけ

 今回は、私が農村づくり支援とその研究をはじめたきっかけについてお話することとにします。

 国の研究機関でありました農業土木試験場に採用されてから3年が経った昭和59年4月から昭和63年9月までの4年半、私は、転勤で佐賀市にあった九州農業試験場農地利用部、元の農業土木試験場佐賀支場にいました。前身は干拓研究所でもあります。

 会長プロフィールやこの「言わせてもらえば」の過去の投稿でも書かせていただいていますが、私は、元々は農業水利施設の水理や土砂流出問題の研究が専門です。どうしたら農業用水が取水地点から農地まで円滑に運ばれ、適正かつ公平に農地へ分配されるのかとか、用水・排水の流れにおいてどうしても運ばれてしまう土砂を水路内に貯めないようにするためにはどうしたら良いのかなどの研究をやっておりました。

 土地改良事業においての施設整備にかかる研究は、事業推進にとって、たいへん重要な課題であり、誇りをもって研究に邁進しておりましたが、農業や農家との直接的な接点は少なく、農家は私の研究を実際にはどう見てくれているのかが分からず、なんとなく物足りなさを感じていたことも事実です。もちろん、転勤には、少し若気の至りでやんちゃをしてしまったこともあり、上からの「頭を冷やしてこい」との、左遷の意味も含まれていたのだと思いますが、私自身は、新たな研究の展望を開くための良い機会だと思っていました。

 どの時点で、農業用水や施設水理の研究から、私のその後の研究人生のメインテーマとなる農村づくり支援研究がスタートしたのかはよく分かりません。もしかしたら案外単純で、九州観光で様々な農村風景を見て、地域で遊び、おいしいものを食べまくっているうちに、農村というものを意識し始めたのかもしれません。また、まだ設立して間もなかった農村計画学会へ少しずつ顔を出しはじめたことが契機なのかもしれません。しかし、最も大きなきっかけとなったのは、やはり昭和六十二年の夏のある出来事ということになるでしょう。

 その年、私どもは、唐津にある上場農業水利事業地区の現場で、土砂流出の調査研究を行っており、ほとんど毎週のように現場に通っていました。この調査では、造成地から流れ出る土砂流出を抑制するための技術開発の初期段階として、降雨によって造成直後の畑地の表土が侵食され、どれくらいの土砂量が沈砂地へ入ってくるのかを測定していました。雨量計のデータ収集と砂防堰堤や沈砂地に入っては、測量をして土砂の堆積量を計測していたのです。

 砂防堰堤や沈砂池というのは造成地にはお決まりの施設で、風雨によって削られた土砂が下流へ流れ出るのを抑制するための構造物です。特に、造成地から集まってくる水が最終的に下流の川へ流される時に、いきなり川に流れ込むとかなりの量の土砂が出て行ってしまい、川の濁りがひどくなり、周辺の環境に影響しますし、河床の上昇により災害の危険性も上がりますので、途中で土砂をくい止めるための堤防を築いているのが砂防堰堤です。小さな渓流などに設置されているものが多く、水を溜める貯水ダムに対して、土砂を溜めるので砂防ダムとも呼ばれています。かなり大規模なものもありますが、小さな数メートルの高さの堤が渓流に十数メートルおきに多段に作られるケースもあります。

 農地の造成地については、畑地や畑地の法面から流出してきた土砂を防ぐ必要があります。一枚の畑地から集められた排水は畑地の周りを囲む幅二十センチ程度の小さな承水路に落ちて集められ、圃場の片隅にある集水桝に入り、それぞれの畑地の集水桝から集められた水は道路側溝を流れ、沈砂池とか土砂だめと呼ばれる十メートル四方ぐらいのコンクリートのプールに入ります。沈砂池の大きさは造成地の大きさに合わせてまちまちですが、大きな粒の砂礫はこの沈砂池で止めることができますが、小さな粒の土砂は沈砂池を超えて渓流へ流れ出て来るので、渓流への出口では砂防堰堤を設けて、できるだけ多くの土砂を下流の川に流さないようにしています。この施設は大きければ大きいほど高い貯留能力を持ちますが、想定外の降雨となると土砂流出も想定外となり、施設では抱えきれなくなるので、防災の観点からも重要な施設と言えます。そういう意味で、どれくらいの降雨でどれくらいの土砂がどんな風にして下流へ流れ出るのかを研究によって解明することは、国がやるべき社会貢献度の高い研究であると思っていました。

 その出来事があった日は、結構大きな台風の過ぎた次の日でした。測量は危険なので、いつもは一人では行動せず、室長や学生たち数人と一緒に行くことが多かったのですが、その時は誰も同行できずに一人でした。私は、ある砂防堰堤に溜まった泥の量を確認しようとして、入って行ったところ、足を取られて動けなくなってしまったのです。一度泥に填まるのは経験していて、その時は室長らに助けられたことがあったので、気をつけていたのですが、またやってしまいました。標尺を立てながら、一歩一歩、気をつけながら沈砂地に入っていったつもりですが、表面が乾いていたので油断をしてしまい、足を無理に踏み入れたところで、いきなり、ズボズボッと腰の上辺りまで填まってしまいました。ようするに底なし沼に足を踏み入れた状態になった訳です。それ以上沈む感じはしなかったですが、炎天下、一時間程度もがいていたように記憶しています。

「助けて、誰か~」

と、何度も叫びながら困り果て、体が冷えて、体力も失われ、もうだめなのかなと思っていると、助けを求める私に気づいてくれたようで、遠くから軽トラが走って近づいてくるのが見えました。軽トラはすぐそばに停車すると、中から四十代後半ぐらいの元気なおかあさんが下りてきて、

「なんばしよっと」

と、声を掛けてくれ、ロープを投げてくれて、引っ張り出してくれたのです。

九死に一生とはこのことです。

 彼女は、本地区の入植者ではなく、近くの農家の方でしたが、たまたまその日は近くを通ったので気づいたということでした。服の泥を払いながら彼女にお礼を言っていたところ、ふと、遠くを望むと、台風一過で空は青く晴れ渡り、農地造成地の山の稜線が浮き出るように綺麗に見えました。そして、山の向うには、紺碧の玄界灘が天上に広がる海原のように望めました。

 沈砂池に填まったのがショックで、精神的にも少し弱くなっていたのだと思いますが、私は、その景観の美しさに、これまでにない感動を覚えました。でも、私の農村づくり支援研究へのきっかけを作ったのは、その景観の美しさではなく、景観の美しさにあっけに取られている私に気づき、声をかけた彼女の一言でした。

「こんな綺麗な景色のところで農業したか~」(作りたか~と言ったかも)

 おそらく、景観が農業の一部と感じたのはその時が初めてだったと思います。多面的機能などという言葉では表現できないほどの、景観と農業の一体感、景観という機能の農業への内在性がそこにありました。

 景観そのものにでは無く、その彼女の言葉の中に景観を感じ取ったというべきでしょう。 農業は土地と水で植物を生産するだけではなく、そこに文化があり、景観があり、それを感じ取れる生活者が農業を営んでいる。実はそれこそが農業なのだということを感じた瞬間でした。私はこの時28歳、遅すぎる『気づき』だったのかもしれません。農村という空間を農村住民がどう読みとって生活してきたのか。農業そのものよりも、農業を位置付かせる農村という場所が、住民によって、如何に生まれ、如何に育ち、如何に変わっていくのか、その日から、それが私の研究の興味の対象となった訳です。

※文頭の写真は、今の季節ではありませんが、唐津の玄海町にある有名な「浜野浦の棚田」です。上記の話の場所ではないですが、玄界灘を望んでいるので、イメージとして採用しました。この日は天気が悪かったので、玄海が紺碧ではないのが残念。

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