不登校はコロナのせいか?

 10月13日、文部科学省が令和2年度の「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」を公表しました。これによると、30日以上登校せず、「不登校」とみなされた小中学生は前年度より8.2%増えて19万6127人で過去最多となったということです。15日の末松大臣の定例記者会見でも、重要な問題であると報告されました。主な要因は「無気力・不安」が46.9%を締め、その他「生活リズムの乱れ、遊び、非行」が12.0%。また、不登校ではないがコロナ感染を避けるため30日以上出席しなかった生徒も2万905人いたと言うことです。更に新聞によると、自殺した小中高学生の数も、調査を始めて以降最多だそうで、415人。あまりにも悲しすぎる数字です。

 新聞等では、ショッキングな数を示して、「新型コロナウイルス感染症によって学校や家庭における生活や環境が大きく変化し,子供たちの行動等にも大きな影響を与えていることがうかがえる。」とコロナ禍による生活変化が一因と理由付けをしていますが、本当にそうなのでしょうか。自分なりにもう少し詳細に数字を追ってみました。

 不登校数は確かに、令和2年度は元年度より8.2%増えていますが、コロナの報道があったのは元年の12月が最初で、まだ一般市民が他人事みたいに感じていたクルーズ船の問題が挙がったのも令和2年1月、コロナ禍に入ったのはその後で、休校は春休みが中心と考えると、確かにコロナ禍の影響はある程度あるものの、決してコロナ過だから増加したとは言えないのではないだろうか。

 実際に、コロナ禍前となる元年度は18万1272人の増加率10.2%、平成30年度も16万4528人で、増加率14.2%と、増加率は令和2年度よりも大きく、この傾向は平成25年頃から顕著になっています。平成25年以降の増加率の平均は約7%になり、平成14年以降はしばらく減少傾向にあったのにも関わらず、平成25年から突然上がり始めたのです。コロナ禍の令和2年度に急に増えた訳ではないのです。

 不登校の理由は、経済、学業、人間関係、いじめ等様々ある上に、教育政策の大きな変革や地域毎の教育方針の違いなどの複合的な問題であるため、一概に社会情勢を当てはめることはできませんが、社会を反映していることは間違いないでしょう。私が調べ、考察したところ、興味あることに、景気動向指数の波と不登校数の増加率の波は関係があるように思います。平成3年のバブル崩壊から景気が後退しはじめると一旦減少傾向になりますが、景気の谷底あたりから回復し始めると不登校数は増加します。平成10年頃のITバブルの時も、景気が下がり始めると不登校率は減少し、リーマンショック辺りで一旦増加に転じますが、景気の戻りが無い間は減少を続けます。そして平成24年頃からアベノミクスによる景気の回復とともにまた増加傾向に戻るのです。平成23年度の東日本大震災の衝撃は子供たちの心に深く残ったものと思われますが、それでも心の不安定による不登校の増加には直接つながっていません。もちろん、景気と生活実態は異なりますし、景気のタイムラグもあれば、子供たちの教育効果のタイムラグもあり、きれいに反映しているとは思いませんが、「親の背中を見て育つ」とはよく言ったもので、世情により親世代に余裕がなくなるのは、苦しい時そのものではなく、そこから這いずり上がろうとする競争の時であるのではないかと思うのです。更に、気になるポイントは平成14年から10年間はずっと不登校数の減少傾向が続いていることですが、これは14年から始まった教育改革での授業時間の縮減、週5日制の導入や総合的な学習の時間の導入と重なります。子供たち自身のゆとりの問題も大きく関わっているようにも思います。それを裏付けるかのように、安倍内閣の「骨太の方針」でゆとり教育からの脱却が始まった平成20年からの教育効果が、タイムラグ(小学一年生が多感な時期を迎える6年から中学生になるのに6年)を以って平成25年辺りから不登校率増加への転機となっているようにも見えます。

 このように見て来ると、確実な根拠はありませんが、不登校数の増加傾向の問題はコロナや世情よりも、寧ろ根本にある「環境と教育の関係性」の問題ではないのかと思えてきます。

 山や海、緑や農地など、農村地域の豊かな自然には心を豊かにする効果があり、様々な人の心の悩みを包み込む機能があると考えます。人と人の接触だけの問題でもなければ、単に自然環境が豊かであれば良いというものでもない。自然という素材を通しての人と人の関係性が重要なのだと思います。自然に育まれた命と会話することで、豊かな感性が育ち、仲間同士で共感を得た時に初めて、子供たちは様々な人生の問題を解決する能力を鍛えられ、苦しみを乗り越えるのではないでしょうか。

 平成に年号が変わるバブル絶頂期の頃の事ですが、京都のとある農村の女性の校長先生にこんな話を訊いたのを思い出しました。

 「最近、ちょっと怖いなぁと思ったことがあったんです。下校中の子供たちの交通安全指導で、校門前の信号のところに立っとったら、六年生の子なんですけど、男の子が道路脇に生えとるタンポポ踏んでいきよるんです。わざとですよ。”踏んだらタンポポ可哀そうやないか”と言うたら、”タンポポは雑草やから踏んでもまたすぐ生えてきよるから大丈夫や”て先生に教えてもろうた言うんですわ。私もね、”踏まんようにして帰りや、下向いて歩いとったら危ないやろう”言うて見守りましたけど、綺麗に咲いとる花、綺麗やなぁと愛でるちゅうんかなぁ、そういう気持ちは無いんかなぁと思うて気になったんです。『踏まれても 踏まれてもなお 咲くたんぽぽの 笑顔かな』という歌もありますげと、あれはわざわざ踏むちゅうことではないと思うんですわ。自然と会話できる子を育てたないかんなぁと思いましたわ。」

 単に子供たち同士のコミュニケーションが無くなることも、心の発達に重要な問題ではありますが、重要なのは、「自然」と言う大きな共感装置を通したコミュニケーションであることが肝心ではないでしょうか。

 農村部の子供の方が不登校数が少ないというデータは出ていませんが、政令都市の不登校数が平均より大きいことは確かなようです。農村という環境の力をもっと活用していきたいものです。緊急事態なら、それこそ、農村への疎開対策だって一つの選択肢かもしれません。

※自然や命と接して豊かな感性を磨き、共感することは心を鍛えることに繋がる。農村にはそんな素材がいっぱいだ。アイキャッチの写真は田んぼの生き物に触れる子供たちの様子。

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