去る者は追う

 「来る者は拒まず去る者は追わず」という故事成語があります。中国の思想家・孟子の逸話を集めた「孟子」に登場する言葉です。孟子には多くの弟子がいましたが、誰でも弟子入りを受け入れるし、相手の気持ちが離れたら無理に引き止めなかったという故事に端を発するものだそうです。本来は、師匠と弟子との関係性についての表現ですが、今では、広く人間関係全般についてのあり方として使われるようです。

 誰でも直ぐに受け入れるが、離れていく者を無理に追いかけて引き留めることもしない。広く浅く多くの人と付き合う場合はこの関係性の持ち方は精神的に楽かもしれません。みんながみんなこのようにクールに付き合えれば、人間関係で悩むこともないのでしょうが、実際にはそんなに簡単には行きません。深く付き合えば、例えば、無二の親友もできるだろうし、別れられない恋人となるかもしれない。様々な社会的立場やしがらみも抱えているので、心が離れたから「はい、さよなら」とは簡単に言えるものではありません。孟子だって、一番弟子とも言える万章(戦国時代の鄒の儒学者)が去ることになれば、「ちょっと待った」となったのではないでしょうか。

 最初の部分の「来る者は拒まず」についても、現代的な人間関係としてはちょっとストレスになりますよね。弟子としてやって来たのだから、それなりに勉学に励むべく意思を持った人であるから拒む理由が無いとは言え、一般の人間関係では簡単には行かないでしょう。見るからに相性が悪い人だっているし、嫌な人は嫌と言いたい時もあるのが人間と言うものです。それとも、孟子のように、亜聖(聖人の一つ下。孔子は聖人、孟子は亜聖)ともなれば、人間が出来ているので、拒まない者はいないということなのでしょうか。

 そもそも、「来る者は拒まず去る者は追わず」を一般の人間関係として読んではいけないのかもしれません。「来る者」というのは、「勉強したい者」のことで、誰でも自由に学べることを指し、「去る者」は「勉強をやめる者」のことで、誰でも自由に学ぶのを止めると読んだ方がピタッと来ます。人と関係を持つことは、すなわち、人からいろいろな考え方を学ぶということに他ならず、人そのものとの関係よりは、人からの学びに対する要否を言っているのでしょう。

 さて、「言わせてもらえば」のコーナーではこれまでに何度も登場頂いている私の農村づくりの師匠である筒井義冨先生は、研究室発足当時、私にこう言われました。

 義冨曰く、「我が研究室は、『来るものは拒まず、去る者は追う』の精神で人と付き合いましょう」

 農村づくりを学ぶために、または支援を求めて研究室を訪れる者は、差別なく受け入れ、もし学んでいる内に、我々の農村づくりのやり方に賛同が得られず、離れようとする者がいたら、追いかけてでも、賛同を得られるまで説得することが必要だ。だから、来る者に対しては、離れようとしても追いかけられるかも知れないので、心してかかるように言っていました。

 まあ、これをそのまま受け取ると、危ない宗教団体みたいになりますが、半分は筒井先生流のジョークで、農村づくりを学び、現場で実践する同志になったのなら、それくらい深く付き合おうじゃないかという宣言みたいなものです。実際に、この「来る者は拒まず去る者は追う」の考え方に賛同し、多くの農業改良普及員さんたちが研修に来られましたし、多くの学生も研究室を出入りしました。また、実際の農村づくりを進めた集落や市町の支援地域とは、どの地域とも結構長く付き合ってきました。「あなたたちの研究室の農村づくりのやり方には耐えられません」と音を上げて離れて行った地域も二、三あったかと記憶していますが、大半は良い関係を築いて、多くの地域の活性化を支援できたと思います。

 農村づくりは、真理の追及によって法則が作られるものではありません。日々、農村づくりに勤しむ実践者や研究者の皆さんが試行錯誤し、切磋琢磨する中で、築き上げていくものなので、最終的にこれが正解であるというものは出て来ません。ですから、農村づくりを推奨してきた我々の考え方は、今までの経験から、どうもこのように考えることがふさわしいのではないかという程度の指導であって、絶対の解決策を教えるというよりは、一緒に考えていく中で、見えてくるものがあるでしょうと言うものです。

 私は、今でも筒井先生が言われた『来るものは拒まず、去る者は追う』は、農村づくりの推進において本当によく填まる名言だと思っています。考え方を理解してもらうというのは、決してこちらの思想にどっぷり填まれということではありません。「そういう考え方もあるのか」と理解してもらうことが出来れば、後は離れても構わないのです。ただ、理解頂けるまでは、鬱陶しいようでも、追いかけてでも分かってもらうよう努力しますよということです。

 今年になって、社会で起こっている様々な問題、政治や行政の動きを見て、「言わせてもらえば」のコーナーで、私なりに問題を紐解いてきましたが、総じて問題は何なのだろうかと考えると、どうも社会全体が上辺だけの議論で終わっていることが多いということ気づきます。様々な解決策や対策も、議論が薄いために、表面に現れる汚れた泡だけを掬っているようで、その泡がどこからどうして発生しているのかを見ようとしていないので、本質問題を解決できないでいるのです。

 人を追いかけてでも、理解してもらいたいという精神が薄れ、「分からない人には分からないでいいや」となると、誰も本質に触れないようになってしまいます。人間同士の深い理解のための議論が無くなり、追いかけてでも理解をしてもらえるまでの努力もしない。これが現代社会の根本にある大きな問題ではないでしょうか。

 30年の時を経て今、筒井先生のジョークみたいなこの言葉、『来るものは拒まず、去る者は追う』が何故だか深く心に刺さります。

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