G7

 5月19日から始まったG7「HIROSIMA SUMMIT 2023」が21日に閉幕しました。

 私のような政治に疎い人間が表面的に報道情報を繋ぎ合わせるだけだと、「今回は、岸田総理も、存在感をかなりアピールできたのではないかな。結構格好いいじゃないか。我が国のリーダーは」と思ってしまいますが、これはあまりにも無責任で「平和ボケ」の見方なのでしょうか。

 久しく訪れていないものの、私も広島には子供の頃から何度も訪れ、原爆ドームも見たし、平和記念公園にも平和記念資料館にも何度も行きました。そして、原爆の被害にあった展示物の数々に接すると、常に「うっ」となって、涙も忘れるほどの衝撃を受けます。それぞれ展示物の意味を正確に説明できる訳ではありませんが、未だに強烈に脳裏にだけは焼き付いているのです。

 だから、そうかそうか、核保有国や核の傘の元にいる国々のトップが、初めて一堂に会し、世界唯一の被爆国である日本のリーダーの案内の元、原爆によって一瞬にして命を奪われた被害者や世代を超えて苦しみ亡くなった人々の御霊に祈りをささげ、核兵器の恐ろしさや非人道性に目を向けることは、核廃絶への一歩として良かったではないかと単純に考えてしまいます。

 オバマ大統領が平成28年に広島を訪れた時もそうです。「兎に角、見てくださいよ。見たら分かるから。核兵器による抑止力で世界の秩序を保つことが如何に愚かなことで、如何に人の道に反しているか」と思いました。慰霊碑の前で被爆者を抱き寄せたオバマ大統領の腕の力強さに、人間’オバマ’の悲しみが偽りであったとは思えませんが、アメリカ合衆国としてはどうだというと、何も一歩も踏み出していないと言わざるを得ません。それはアメリカだけじゃない、核保有国皆がそうだし、核兵器禁止条約を批准していない日本もそうです。これなら、ちょっと乱暴な言い方になるかもしれないが、国際的な法の秩序を無視するロシアも北朝鮮も、核兵器拡大を続ける中国も、国家の価値観や主義は異なるものの、人間としての本質は同じ位置のように思えてならない。

 今回のG7も、首脳陣が被爆展示を見て、被爆者から話を聞いたというところだけは、行動としてこれまでより一歩進んだと言えますが、結局は「核廃絶」については何も踏み込んでいない。『広島ビジョン』において、一方でロシアや中国の核は牽制しておいて、最後の項目に「我々の安全保障政策は、核兵器はそれが存在する限りにおいて防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、並びに戦争及び威圧を防止すべきとの理解に基づいている」と言ってしまうなら、ロシアも中国も「それは西の言い分でしょ」って言いたいだろうし、日本の野党の皆さんは政府批判し、平和や核廃絶を推進する団体やNGOの方々からしたら、「この中身の無さはなんなの!」って落胆すると思います。

 どうしてこうなってしまうのか。それは、私たちが、核保有国のリーダーが衝撃を受けたら、即その感受性は自国で発信されるものだと信じているからです。もちろん、そういうリーダーもいるでしょうが、自国に帰れば、それは単なるリーダー一人の感受性から発した伝達に過ぎず、国民全体からしたら他人事であって、我が事になるまでには時間も距離もかかるのです。どうしたら早く、リーダーが感じたものがそれぞれの国民に共有されていくのかを考えねば、先にはなかなか進まないでしょう

 ここで少し「農村づくり」の話をしましょう。農村づくりのプロセスは「関心」→「参加」→「発見」→「理解」→「創出」という流れで進むことは、これまでにも「言わせてもらえば」のコーナーでも触れてきましたし、「農村づくり講座」の中の「農村づくりの技法」の講座でも詳しく説明しています。このプロセスは、1975年に国連教育科学文化機関(UNESCO)が掲げた「ベオグラード憲章」の環境教育の目標を参考にして、農村づくりを社会環境教育の一つとして位置づけて私が考案したプロセスです。私は、このプロセスをうまく回さないと、農村づくりにおいてどんなことも成就しないとずっと主張しています。

 プロセスを簡単に説明すると、常に最初にあるのは個人の「関心」であり、「関心」が無ければ何かを成そうとは思わない。「関心」の中には迫りくる危機や心の衝撃も含むものです。でも、それは個人の心の中に留まれば、次には進みません。「参加」という過程を踏んで、同じ「関心」を持つ仲間を作ることが必要です。また、そのための参加の場を持つことが大切です。仲間を作ると表現すると、組織は作ってあると言われる方が多いですが、ここでいう「参加」とは同士の組織化と言うよりも共有認識を広めるという意味での「参加」となります。そうすれば、「関心」は同士の属性共有から地域共有のものとして範囲を広げていきます。しかし、広がるとともに、「関心」の中身は薄まりますから、その関心が事実に基づくものなのか、真の関心なのかを見極め直さないといけません。そのための活動が「発見(再発見)」です。単なる個人の「発見」ではなく、「発見」の共有が大切です。そして、その「発見」したことが、現在何故この状態になっているのかが気になってきます。ここまで来てようやく、知識や経験、科学的知見を総動員し、様々な立場から「理解」を共有しなければならないことが分かってきます。ここは結構難しいプロセスとなります。知識や経験が個人レベルであっても意味はないからです。参加範囲に合わせて、同レベルの知識や経験を持たなければならないからです。その地域なり、国の教育や情報リテラシーが大切になります。そして、これを踏み越えると、その理解の先に共通項が見えてきて、適正な判断ができるまでとなり、実施目標を画餅にしないよう、混沌とした中から組織的にいくつかの合意を生んでいく、これが「創出」となります。

 農村づくりでは、是非この流れを踏んで頂きたいと私は常に思っています。何故ならこのプロセスこそがその時任せの地域活性化にはならない、地に着いた農村づくりとなるからです。そしておそらくは、「核廃絶」のプロセスも同じように考えられます。只、大きく異なるのは、そしてあまりにも困難なのは、「参加」以降の共有認知の範囲が、地域レベルではなくて、国、世界レベルになることです。

 今回のG7では、核廃絶に向けて「がんばろう」と言ったままで、具体的な一歩は話し合われなかったし、明記もされませんでした。いや、明記されないだけならまだしも、『広島ビジョン』ではどちらかというと反対のことが書かれています。「核兵器の廃絶」や「正当化記述の排除」等、確かに、明文化が欲しいところではありますが、やはり冷静に見ると、まだ核保有国のリーダーが「関心」という個人の心の中を埋めたに過ぎません。具体的な行動を「創出」するためには、道は遠いが、順序としては、次はリーダーの発信力による「参加」の範囲を拡大していくしかありません。他国の政治干渉になるかもしれませんが、明文化するなら、「G7の首脳の自国での恒常的な発信の義務」の約束ぐらいは取り付けたかったものです。

 世界のリーダーの中には感受性が低い輩もいるし、政治的バランスや支持率オンリーで動く輩もいるので、益々困難を極めるということなのでしょう。只、この歩みを止めることはできません。平和への道筋ということを改めて考えさせられた3日間でした。

関連記事

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。