光る君へ

 「光る君へ」、いよいよ、吉高由里子さん演じる「まひろ」、後の「紫式部」が物書きの道へ進む兆しが見えてきました。本当にそんなことがあったのかどうかは知りませんが、蜻蛉日記の作者「菅原道綱の母」寧子と会い、「私は日記を書くことで己の悲しみを救いました」と言う彼女の言葉に深く痛み入ったようです。なかなか良いシーンだと思うのですが、あれれ、「兼家」って誰だっけ、「道綱」は上地雄介が演じているのだから、そうかそうか父親は段田安則さんで右大臣かと、役者を追って人の関係性を辿らないと、名前だけでは分かりにくい。

 そもそもこの物語、道何タラ、兼何タラと登場人物の名前が似ているし、準主役の菅原道長以外は役職の違いがそれほど顕著に演出されていないためキャラが立っていないし、正妻以外に妾がたくさんいるものだから、相関図も綺麗に見えてこない。「あきこ」という女性の名前も、藤原詮子、源明子に、まだ幼いが、藤原影子もいて、「あきこ」とだけ呼ぶと「どこの誰!」と叫びたくなってきます。道長は正妻の子と妾の名前が一緒みたいだが、それってややこしくないのだろうか。寝言で「あきこ」と言っても詮索されないので寧ろ都合良いのだろうか。まぁ、ある程度史実に基づいて作っているのですから、名前を変える訳にもいかないでしょうし、困ったものです。

 私は、NHKの大河ドラマは子供の時から大好きで、必ず見ています。最近はNHKオンデマンドで過去のドラマがほとんど見られるので、「独眼竜正宗」、「翔ぶが如く」、「太平記」なんかも毎日数話ずつこなしておさらいしています。古い作品はどれもなかなかの深みがあって良い。さらに、こんなところにこんな役者さんが出ているなんてのを発見するのが楽しみでもあります。ただ、どの作品も、おおよその事の流れを知っているし、人物像もある程度分かっているので、人の名前がよく似ていてもちゃんと仕訳けて見ることが出来ます。だが今回は違います。平安時代を舞台にしているという特質なのだろうか。とにかく人の関係性が複雑で、なかなかついていけない。視聴者の皆さんはついていけているのでしょうか。私だけの問題ならば、年なのか、ボケが始まったのかと心配になってきます。

 そんなことを考えている内、変なことを思い出しました。農村づくりの研究を始めた当時のことですが、農村地域に行くと、人を呼ぶ時に「吉沢の庄吉さん」とか、「本家の正雄さん」なんていうものだから、私はてっきり、「吉沢庄吉さん」に「本家正雄さん」さんだと思って、「吉沢さん」、「本家さん」なんて呼んで、恥をかいたことがあります。吉沢は集落名だし、本家ってその土地の名士、昔の庄屋さん筋の本家であって、姓はまた別にあったりします。でも、地域の中では、この土地と名前、家筋や屋号と名前の組み合わせの呼び方で互いに十分わかり合っているし、なんの支障もないらしい。人という存在が単に無機的な「個」ではなく、脈々とした時間と空間の中に位置づけられることによって鮮やかな人間関係を作り、有機的な「個」となって人に伝わっていくのだと思います。

 羨ましいと思う反面、しがらみを背負って面倒だなとも思いますが、何か寂しさを感じさせないものがあります。「あなたは一人で生きてはいない」と思わせてくれるような気がします。そう言えば、私も子供の頃、「カメラ屋の徳ちゃん」とか「月光さん(店の名前)のところのとく坊」と呼ばれていましたが、案外心地よかったことを覚えています。みんな「個」として生きていますが、時空間を背負った「個」として生きることも大切なことで、こうして社会の一員であると認められることはそれほど面倒なことではないように思えます。決して、「個」をないがしろにしたり、家筋で差別したりしているのではないと思うのです。最近、そういう人の関係性が農村でも都市でも薄くなっていることが気がかりでなりません。

 平安時代の人の呼び名や関係性が見えてこないのは、ドラマを外側から見ていて、その時空間に入り込んでいないからであって、自分がその時空間にいるのなら、「誰それの子」とか「誰それの夫」という表現も、家筋や屋号と名前の組み合わせの呼び名も、同じような名前だって、社会との関係性が分かりさえすれば、無理に「個」を強調しなくてもどうってことはないのかも知れません。

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