会心のワークショップ

 唐崎卓也(流通経済大学教授)

 このサイトを運営されている山本徳司さんは、私にとって長年にわたり研究所でお世話になった師匠といえる存在である。私は、今でこそワークショップに関する研修講師を務めさせていただいているが、その多くは山本さんから学んだことである。山本さんとの研究室長-研究員の関係は、研究所に在籍した30数年のうち、わずか2年しかない。同じく、ワークショップの第一人者で、このサイトの山本さんのコラムに「筒井先生」として登場する筒井義冨さんも、私にとっては師匠といえる存在だが、同じ研究室にいたことは一度もない。それほど私にとって、ワークショップは、別の部署にいる師匠から意識して学ばねばならない対象だったのである。

 ワークショップ自体は決して難しい手法でない。しかし、地域づくりのどのような場面でワークショップを用いるか、そこに至る段取りをどうするか、ワークショップ当日の進行ではどうふるまうべきかなど、教科書だけの知識で身につけることは難しい。師匠が行うワークショップに同行して観察し、色々とお聞きして、自分でも経験するなかで、習得した部分が大きかったように思う。

 これまで様々な地域づくりの現場でワークショップに関わってきた。多くの場合は、ワークショップをやってよかったと思っている。しかし、野球でいえば「会心の一打」といえるようなワークショップはそれほど多くない。ワークショップの限られた時間のなかでは、意見がうまくまとまらなかったり、議論しつくせなかったり、あるいはワークショップにうまくなじめなかった参加者が見受けられたり、どうしても課題が残るものである。

 では、「会心のワークショップ」とは、どのようなものだろうか。自分にとっては成功したと思っても、参加者である地域住民には不満が残り、その後の地域づくりにはつながらないケースもある。逆に、ワークショップ自体は今一つの内容でも、その後に住民が地域づくりに動き出すケースもある。

 私にとって会心のワークショップとして思い浮かぶのは、ある農産物直売所で行ったワークショップである。その直売所は、私が10年近くも研究協力いただき、出荷者である農家や役員、店員の方々に大変お世話になった思い入れのある店である。20数年前になるが、直売所の顧客と農家との交流を目指したワークショップを企画した。

 そのワークショップは、専門家による講演、農家の生産現場の見学、農家と顧客の方々との意見交換からなる、盛りだくさんの内容だった。ワークショップを終えたとき、主催者側の直売所関係者、ワークショップに参加いただいた顧客の方々、ファシリテーターを務めた研究所スタッフの一体感、満足感のようなものが感じられた。ぴったりはまった、という感覚である。直売所での農家と消費者との交流を目的としたワークショップは、他の地域でも同じように実施したことはある。しかし、会心とまでは言い切れなかった。直売所との関係性や思い入れの強さが、感覚の違いにつながっているのかもしれない。

 そもそも、なぜ私がその直売所に関わるようになったか、20数年前の話にさかのぼる。当時、私は研究室で取り組んでいた直売所研究の調査協力先を探していた。今ではあたり前になっているが、POSやインターネットを活用した直売所の情報システム導入を試験的に行うというものだった。協力いただく直売所では、それまでのレジや精算の仕組みを変える必要があることから、お願いするほうも、お願いされる方も大きな負荷をともなうことは明らかだった。

 研究協力をお願いするために、お世話になっている知り合いの農家のつてを頼り、その直売所を紹介いただいた。ある日の夜7時から開催される直売所の役員会で説明の機会をいただけることになった。私が説明させていただく機会は会合の最後に、とだけ伺っていた。電気がついていない別室で待つように指示され2時間ほどたった。少なくとも私が歓迎されていないことは理解できた。

 ようやく出番をいただき、役員の皆さんの前で「直売所の強みである少量多品目の特性を生かし・・・・」というような能書きを述べた。すると、役員のひとりで出荷者のリーダー的存在の当時40代男性の農家Aさんにどなりつけられた。「簡単に多品目というが、農家にとって新しい品目に取り組むことがどれだけ大変なことかわかって言っているのか!」。初対面で役員の方を怒らせてしまい、頭が真っ白になりつつも、その後も懸命に説明させていただいたことは覚えている。 

 説明を終えた時点で、役員のどなたも厳しい表情をされていて、協力いただけないことを覚悟した。会議のあと、私が落ち込んでいるのを察していただいたのか、Aさんから「厳しいことを言ったけど、やりたいことはわかった」というような声をかけられのが、せめてもの救いだった。

 その後、どうなったか。Aさんは、役員会で研究協力に否定的な意見があるなかで、協力に賛成いただいたそうで、そのおかげで私は直売所に深く関わらせていただけることになった。Aさんが責任を持つかたちで、受け入れて下さったことを後になってから知った。その後、10年近くにわたり、情報システムの導入に始まり、出荷者への調査、イベントでのアンケート調査など、実に様々な場面で研究協力いただいた。Aさんには、時には怒られ、励まされながら、私にとって直売所の師匠のような存在となった。Aさんは、職人肌で言葉は厳しいが、高いプロ意識があり、顧客からの信頼を第一に考えていることがよく伝わってきた。Aさんのつくるトマトは甘いだけではない。ほどよい酸味とコクがあり、感動の味だった。私のトマト好きは、Aさんのトマトのおかげである。

 この直売所でのワークショップは、Aさんとお話をしていくなかで、顧客に自分たちの農業を知ってほしい、顧客に信頼される直売所にしたい、という想いをワークショップという形にしたものだった。ワークショップの企画は、直売所の閉店後のバックヤードで、Aさんと夜な夜なアイデアを練った。

 ワークショップは無事、盛況に終えることができた。その後、ワークショップを契機に、直売所では農業体験や交流活動を開始し、直売所の顧客から多くの参加をいただいた。Aさんはあまり人をほめるタイプではないが、「あのワークショップが良かった。」とおっしゃっていただいた。

 さて、野球の話になるが、「会心の一打」は、どのような時に表現されるだろうか。まず、当たり損ねのポテンヒットや、ぼてぼての内野安打は、会心と表現されることはない。やはり、ホームランやクリーンヒットのような、「形が美しい」ものを捉えた表現といえる。また、得点差がついて勝敗がほぼ決まっているような時には用いない。逆転打や貴重な追加点のような勝敗を左右するような「重要な場面」に用いられる。

 それと同様に、「会心のワークショップ」とは、形が美しく、かつ重要な場面で機能しているものではないだろうか。この場合の形の美しさとは、ワークショップ自体のまとまりのよさである。抽象的な表現だが、形の美しいワークショップは、その場にぴったりはまる感覚があるように思う。また、重要な場面とは、地域づくりの中でワークショップが重要な役割をもって位置づいていることである。つまり、ワークショップ自体の評価ではなく、そこに至るプロセスや、その後の活動を含めた地域づくり全体の文脈の中での役割として評価されるものではないか。

 私はワークショップを企画する側にいるが、主催者側の関係者の熱量がエネルギーになる。主催者側から企画を丸投げされたようなワークショップは、会心のワークショップにはなりにくい。あの直売所でのワークショップも、今になって思えば、出会いの時点からがスタートだったような気がする。全てが会心のワークショップというわけにはいかないが、時にはそんなワークショップに関わってみたい。

関連記事

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。