普段、私たちは周りをどのように見ているのだろう

小林昭裕(専修大学) 

 景観というものを研究しつつ、学生に教育をする端くれとして、時々、思わぬ事に気が向いてしまう。一種の気まぐれなのでしょう。

 図と地で有名な「ルビンの壺」、心理学で、ある物が他の物を背景として全体の中から浮き上がって明瞭に知覚されるとき、前者を図、背景に退くものを地と言う。ものが見えているというのは、そこに認識上の有意義なまとまりがあって、隣接するものの間で縁が結ばれることで意味が生じる。同一のものを見ていても、地を図に反転させた際に生じる意味は、認識の上で同時に成立しない。人それぞれ意識の置き方が同じではない上、同一個人であったにしても、同じ物的対象を視界に捉えられていても、図として捉えているものが移ろうことがある。

 一方で、もののまとまりや美醜は、周りの事物との関係によって、その価値が左右される。一献傾けるのが好きな私が、とりあえず注文するのが”刺身の盛り合わせ“。個々の素材もさることながら、取り合わせによって美醜が変わる。そのことを実感するのは、誰かが箸を入れて、刺身をひとつ抜き去るだけで、先ほどの美が失なれるのは不思議なものと言いつつ、私も箸をいれ、さらに崩してしまう。私は”刺身の盛り合わせ“の何を見ていたのだろう、“大トロ”だけを見ていた、いや、味わっていたのかもしれません。盛り合わせも見事だけれども、舌で味わいを予期しながら、眺めていたのかな。

 このような状況を脳科学的に説明して理解することはできるが、普段、そのようなことを意識して、視覚情報を細かく解体し理解することはまずない。先日、ある番組で「都会の人はなぜ冷たいのか」との問いの答えは、「田舎に比べ刺激が多すぎる」ことだそう。刺激が多くて脳が情報を処理しきれないため、できるだけ入力する情報を制約する、人とのあいさつもできる限り少なくする。ある意味、いい塩梅で処理している、理で突き詰めないで成り行きで処理していると言ってもよいのかも。

 さて、私は子供の頃、広い石河原の中を左右に蛇行して流れる川で遊んでいたが、見た目に、白波が建っている早瀬、波がなく水面が水平移動する平瀬、流れが淀む淵、淵から早瀬に向かい徐々に動きを増すとろ、それがいくつも順々に連なり川という景色が広がる。暑い夏、川に身を沈めると、早瀬は水の音が騒がしく川底の石が不安定、平瀬に入ると深みが増して流れの圧力を感じ、淵に入ると流れの圧力が前後左右から押し寄せ、とろへ体を掃ければ流れを感じ始める。改めて岸に上がり川を眺めると、そこには、目で見た世界と肌で捉えた世界が立ち現れる。景観を学び始めて以降、困惑を覚える時。何故なら視覚に関する情報には、先ほどの早瀬、平瀬、淵、とろといった用語、川の流れを表現する言葉も数多くあるのに対し、水の流れを体感で捉えた中身を伝え得るにふさわしい言葉がなかなか見つからない。体感を言語化できず、視覚との連携に戸惑いを覚えることがある。

 景観というのは視覚の領域が主なので、そこに味覚やら嗅覚、触覚、肌間を持ち込むから、ややこしくなるのだと、お叱りを受けそう。デジタル社会では視覚情報が圧倒的で様々な疑似体験が視覚を通じて為される昨今、私のように肌、香と言っているのは、”旧人類”なのかも。本来、五感をフルに活用して周りの世界を見てきたのが、我々人類であり、過去の経験を認識の拠り所として、目に見えない領域までも捉えていたのではないでしょうか。長谷川等伯の「松林図屏風」、松が霧の中で佇み、その姿が霧によって掠れているが、そこに霧の動きを感じるのはなぜだろうと思う。おそらく、現実体験で霧に覆われた森を見たことがあり、その霧の動きを体感していることを記憶しているがゆえに,静止画であるにもかかわらず、時間の揺らぎを覚えてしまう。

 デジタル社会では、旅をする際、インターネット情報が『真』で現体験が確認作業になってしまった感があり、情報と実際が食い違うと苛立ちを感じる声を耳にする。旅の本質である非日常的世界に触れ、思いもよらぬハプニングや出来事に遭遇することの妙味を忘れてしまったのかのような。学生が本物の石炭を見たことがないというので、現地へ出かけ、「石炭飴」なるものを見せた後に、実物の石炭を見せた処、「石炭飴みたい」と言われた時、思わず腰砕けに。デジタルトランスフォーメーションで作成された情報と実物とが区別がつきにくい昨今、しかも、あらゆる情報にアクセスができてしまう現代社会、さらに評価、評判も人為的に操作が可能な今日においては、何が真実で何がフェイクなのかを見分かることも難しくなっている。

 私は山登りが趣味ですがが、天候の悪化や自身の注意力の変化を見抜くことが遭難を防ぐうえで不可欠。判然とはしない中で兆候を見逃すと、潮時を逸して追い込まれてしまう。見えているようで見えていないものを捉えようとすることが危機回避につながる、そんな話をしても、理解できない受講生増えているような気がします。

 若い世代をみながら、周りを見る力が弱くなったなあと感じるのは私だけでしょうか。

※アイキャッチの写真は、子供の頃遊んだ庄川です。

関連記事

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。