集落という生き物 其の三

 その後、会長さんたちは、しばらく見回りを続けたそうだが、ルール違反をしてゴミを出す人は現れなかったそうだ。

 会長さんに、後になって聞いた話だが、もし、アパートの住民が犯人だったら、アパートの住民だけ、町の回収から別にして、個人で処理してもらうことにしようと思っていたそうだ。そんなことが行政的にできるのかどうか分からないが、そんなことにでもなれば、生活できなくなる。犯人探しはそれなりに意味があったようだ。

 その日以来、私たち夫婦は、集落内では「英雄」のようだった。集落内を歩いていると、知らないおじいさんやおばあさんたちから「ご苦労さんやったね」と挨拶されるようになった。会長さんをはじめ、役員の方たちが、私たちの武勇伝を触れ回ったのだ。

 アパートの横に立派なニラ畑があって、六月の終わりぐらいからアパート周辺がレバニラ炒めの中にいるような香りがしていたが、そのニラを作っている農家の方とも親しくなり、収穫されると、毎日が餃子になりそうなほど玄関先に持って来てくれるようになった。

 この古い集落の既住民からすれば、いままで外部から入ってくる住民と言えば、お嫁さんや婿養子さんぐらいで、本当の意味でのよそ者はいなかったのだ。だから、我々のように、ミニ開発の新興アパートに住んで、集落入りした新規住民なんていうのは、初めは集落の仲間とは認められなかったはずだ。

 この事件が起こるまで、私はまったく気づいていなかったが、私たちは集落住民ではなかったのだ。役所で手続きをして、自治会費を払えば集落住民だと思い込んでいたが、既住民は誰一人、アパート住民を同じ集落の仲間だと思っていなかったのだろう。

 佐賀の県民性は閉鎖的であると言われることがある。特に、この集落はその佐賀の閉鎖性を代表するような集落だと聞いていた。転入手続きの際も、役場の方にも、「あそこの集落は住民どうしの繋がりが堅いですよ。村の行事や規則は重要だから気を付けて近所づきあいしてくださいね」と言われていた。しかし、この事件のおかげで、そんな堅苦しさは微塵も感じなくなったし、「閉鎖的」というレッテルも間違っているように思えた。しかも、数年前に見たNHKの連続テレビ小説『おしん』で、佐賀の姑のきついイメージが植え付けられていて、佐賀人は意地が悪いと思っていたが、そんなことは無い、みんな優しい人ばかりだ。佐賀が一気に好きになったと同時に、『集落』という言葉が確実に私の脳にインプットされた。

 その後、結婚して帰ってくる予定だった長男が東京から返ってこなくなったという農家のおじさんが息子のために建てた一軒家を貸してくれることになり、アパートは出たが、しばらくその集落に住み続けることとなった。集落内では、女性差別の問題など、いろいろと紆余曲折はあったものの、三年目の秋だったと思うが、妻は地域の運動会で集落代表としての体育委員の役を引き受けることとなった。若い人がいなくなって、なり手が居なかったということもあったのだろうが、聞くところでは、新規住民では初めてだと言われた。閉鎖的って誰が言ったのだろうか。関係性を深め、自分たちが真の集落住民になりつつあることを強く感じた。

 私は、昭和63年、佐賀からつくばに戻り、集落整備計画研究室に配属され、後々、研究室長も務めることとなるが、その中で、全国の様々な集落での新規住民と旧住民との軋轢、差別を見てきた。元々、集落は閉鎖的な人間関係を基本としている。でなければ「村八分」なんて言葉は産まれてこない。特定の空間における共同生活のルール、いわゆる、「村の掟」というものは命に係わるものも含まれる。だからよそ者にはより大きな注意が向けられる。しかし、「村の掟」や「村八分」を、封建的だとか差別だと単純に言うことは間違っているだろう。無理に閉鎖しているのではなく、それによって地域の資源が守られ、環境が持続的に利用されていく。また、人間の関係性を強くすることで、連帯感を生み、災害時などに強力な相互扶助の力を発揮することになる。

 私はこの事件を通して、初めて私自身が集落という社会の組織の中にいることを実感した。大学を卒業し、社会人となり、研究者という職業についたが、これまでずっと関わりを持ってきた人は研究者が中心であったし、幅を広げても、仕事の関係者の範囲を大きく超えることはなかった。また、その中から、趣味や遊びで関わる人はいて、そこから派生する関係はあっても、地域という関係性は持っていなかった。つくばという地域での生活も、公務員住宅に住んでいたため、一般社会、同じ集落に住む住民との本格的なコミュニケーションは初めの経験ということになる。考えてみれば、なんと狭い世界で暮らしていたのだろう。

 「集落」という言葉を辞典などで調べると、『「集落」とは、住戸がまとまり社会生活を営む最少単位の地区をいうが、もともとは農林水産業など生産活動における共同関係、生活における相互扶助関係や氏神等祭祀関係などを通じて歴史的に形成された、共同意識や領域認識等による結びつきの強い地域社会であり、「むら(村、邑)」と呼ばれていた。』と書かれている。私も、それまでは人に話すときはこの意味を持って『集落』と使ってきたが、実は、この事件を通して、もう一つ大きな意味を感じている。それは、『関係性の成長』を担う空間であるということです。歴史的に形成され、文化的意味合いがある時、それは常にその成長を含んでのこととして捉えなければならないだろう。しかも、成長は集落住民だけではなく、関係するすべての人に対して働く。掟は固定されたルールではないし、村八分も何分まで許されるかは分からないが、決して二分が固定された許容ではない。農家が中心だった時の集落はもう日本のどこにも無くなってきている中、地続きかつ多様な属性を持つ人の「関係性の成長」こそが集落コミュニティの大切な意味である。もっともっと蠢き成長すれば良い。脱皮し、変態が起こるまでに。『集落』、それはまるで生き物のように成長しているのです。

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