フェアじゃない

 ジャニーズの問題が日本社会全体を揺るがしています。国際的な人権問題にもなっていますし、政治、経済の広く隅々まで影響を及ぼしています。ジャニーズ事務所の元中心的人物の前代未聞の性犯罪に端を発し、芸能界とメディアの関係性にも問題を孕んでおり、今後、ジャニーズ事務所が被害者への救済や補償、再発防止をどのように進めていくのかについて興味のあるところです。

 ただ、この話題についての私の情報量は少なく、芸能界にはまったくのド素人である上、研究会のホームページにはそぐわないので、気にはなりますが、取り上げるのは止めようと思っていました。しかし、農村づくりのノウハウとの接点で言いたいことがあるのと、何でも出しゃばりたくなる悪い性格のため、とうとう書き出してしまったので、このままとりあえず言いたいことを言わせてもらうことにします。

 ジャニーズ事務所の2回目の会見では、会場設定、会見ルールの不備や会見運営の委託先と事務所との関係の適正性が指摘されるだけでなく、NG記者リスト(実際には「氏名NG記者」らしい)が存在したことが発覚し、会見自体のフェア性が問われています。ここではこの「フェア」ということから考え始めたい。

 さて今回の場合、「フェア」とは「公平」と言う意味で捉えて良いと思いますが、テレビでこの一連を見る限り、会見が公平ではなかったことは間違いないでしょう。しかし、問われる側が会見を主催した場合は、どんなやり方をしてもフェアとは言われないように思います。どんなに完璧に設定しても、何処かにほつれが出るだろうし、何かしらの不足が生じて、問う側が「フェアじゃない」と文句を言うことになります。

 どうしてそういうことになるのか。突き詰めていくと、問題の本質は『議論の仕方』にあるように思います。議論や質疑が本来の姿となっていないために、何の解決も、納得も生まれず、互いの主張の一方通行に伴う当事者間の分断が進むだけになっています。議論が進まないのは、一定の知識を以って情報を共有して、相手の立場になって考えて、相手の主張を理解してから初めて反論に移ることが出来るという議論の法則を無視しているからに他なりません。問われる側と問う側の闘い、加害者と被害者の攻防という枠組みでだけで議論を交わし、互いに自らの主張だけをして、何が摺り合っていないのかを分析しないから、何も明らかになっていかないし、互いに納得もできない。

 問われる側からすると、事案が如何に犯罪的性質を有していたとしても、自分たちの主張や質問への回答を理解してもらうために最善のストーリーを作ろうとしますし、聞いてもらいたいことは何かに焦点を当てます。ですから、例えば理解促進を阻むリスクを避けるため、本題から離れやすい質問をする記者は誰だと、NG記者リストも作りたくなるでしょうし、記者の席順も工夫するかもしれない。もし「誰も排除していない」、「リストは使っていない」と主張したとしても、自分たちの意思に関係なく、触れて欲しくないと思うことは大なり小なりある訳で、自ずと「フェア」にはならないのです。

 時間設定や一社一問というルールも、問われる側の集中力の持続性の限界、答え易い流れづくりなどについて適正だと思う条件を作ったということに過ぎません。問う側が、それを「フェアじゃない」というのは的が外れています。問われる側の隠ぺい体質や身内守りを「正す意思のない悪」と決めつけている上に成り立つ反論でしかない。東山さんも井ノ原さんも、どうでもなるようになれなんて思っておらず、できるだけ真摯に向き合い、答えていきたいのだが、無意識の悪気はあるのです。ですから、一方的な虐め質問ではいけないし、犯罪企業であっても、夜通しかけて質問攻めに合わせて良いとは思わない。

 彼らの答えにくい気持ちや適正な対策を直ぐに出せない苦しさを理解した上で、効率的に真実を明らかにし、今できることはどこまでかを見極め、対策の方向を模索できる質問を投げるのがプロの記者ではないだろうか。「経営のプロを社長に据えろ」なんてことを言っている記者もいたようだが、それじゃあ元も子もない。「記者側も品格のあるプロだけにしてよ」って言い返されてもおかしくない。

 更に最近は、問う側の質問が断片的な事実やフェイクと思われる情報に依る場合があり、無礼で品が無い場合が多いが、このことも問題を複雑にしていると思います。同じような質問を何度もするし、質問しておきながらその8割が持論の押し付けもあるため、問われる側も質問の意図を見極めることができず、次第にあらぬ方向の答えになってしまいます。これはしかたないのです。みんながコンピュータのように過去のデータを完璧に記憶して、自分の言ったことを覚えているほど賢くないし、その時の感情も刻々と変わっているのですから、時間が経つと矛盾だって生じる。それをまた、ちょっと賢い人に、前と言ったことが違うとか、論理的に破綻しているなんて言われても、「今はそう感じ、そう思ったから、そういう言葉が出てしまった」としか言えないのです。ある程度の記憶力と知識と冷静さは必要だが、そんなにみんな賢くは話せないと言うことです。プロの経営者であったとしてもです。

 だから私は、「議論の仕方そのものが間違っているのだ」と言いたいのです。もし本当によりフェアを求めるなら、問われる側と問う側が同格として位置付けられた議論の末に、両者で会見の場や会話のルールづくりをすることから始め、対立ではなく、共に学習し、共に解決していく姿勢のワークショップ的な会見を開くべきです。複雑系の問題が多い時代には、考えの多様性を飲み込むような、この時代に適した議論の方法があると思います。

 農村づくり活動の初期の段階でよく行われるワークショップは、実は「フェア」を自然に構成する機能を持っていると私は思っています。地域を活性させたいと思っている人ばかりで話しても何も生まれません。いつもその傍にその議論を胡散臭そうに聞いていて、何か希望的なことを言うたびに、それを否定するような人がいてこそ、議論の本質を探れる。これを対立軸として議論すれば、賛成派と反対派に分断するだけなのです。最初は賛成も反対もなく、互いの考えを理解し合うことを目的として、対立軸を設けて議論するのはその後であるべきです。

 私は何も、議論が対立してはいけないとは言っていません。井ノ原さんの「落ち着きましょうよ。子供も見ていますから」に、問う側が拍手するのもどうかと思います。問う側と問われる側が毅然と対峙することは重要ですが、それは、両者が同質の知識や情報を持ち合い、相手の立場を理解する中での対峙であるべきだと言っているのです。農村づくりのワークショップはそれを実現できる一つの方法です。多様な人が関わり、情報の偏在がある農村であるからこそ、対立よりも大切なのは、反対も賛成も、好きも嫌いも、善も悪も、清濁併せ飲む集団的な度量を以って議論する場とルールを設けることです。今回のジャニーズの会見を見ていて、ワークショップの意義が再確認できたとともに、もっとこういう方法を社会の各場面で活用してはどうかと思いました。

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