暮らしの知を地域活性化に繋げる(5)

5.事業の難しさ

 地域アイデンティティの醸成は、地域住民の地域環境や社会の共有認知が起点となります。

 元々の自然条件や地形条件などで形成されるアイデンティティもありますが、その上に人が住み、社会として成立していく過程で、如何にすれば持続的に暮せるのかについて住民が共有化を図ることで、さらに固まった地域アイデンティティが出来上がってくるものです。だから、「地域住民の地域環境や社会の共有認知が起点」だという訳です。

 アイデンティティと言うのは「自己同一性」と訳され、地域アイデンティティとは「地域の独自性」と言うような訳が一般的にされていますが、簡単に言うと「場所」として認識された、あるべくしてある地域の姿と言うようなことになるのでしょうか。訳してしまうと「独自性」などと言う用語を使わざるを得なのですが、謝った解釈をしてはいけない点は、独自性そのものではなく、その根底にある文化や人、場所の特徴を現在のその姿にしている地域独自の価値観を指していると言う点ではないでしょうか。

 永くその地域に住んで、何か特別な利害がある訳でも無いのに、自分のふるさとはここだと誇れ、この地域が好きで、ずっと住みたいと思ったのなら、それは、あなたがこの地域のアイデンティティを持っているということになるでしょう。持っているというよりは、感じている、感じることができるということなのかも知れません。

 さて今回は、地域振興に関わる事業、特に、土地改良や施設整備等の保全・開発事業が、いったい地域に対して何を与えてきたのかについて、アイデンティの観点から紐解きましょう。事業は生産効率の向上による所得改善、生活利便性、安全性の向上と言った地域の生理的・社会的欲求を満たすために物を作ったり、使いやすく配置したり、活動を支援したりしているのでしょうか。もちろん、それは事業の大きな役割ではありますが、私は、地域振興に関わる事業において本来やるべきことは、その土地であり空間が、住民によって地域環境や社会の共有認知できる場所となることであると思っています。特に、農村振興に関わるソフト事業が担うべき役割には、後者がむしろ重要であるだろうと思います。

 地域住民が集まって、自分たちはこれまでどんなところに住んできたのか、どんな地域資源を持っているのか、それらを使って何ができるのか、今の産業活動以外に何が考えられるのか、観光拠点化の可能性はどうか、様々な認知共有をして、将来に繋がる地域資源の活用と保全に取り組まなければなりません。

 しかし、これらのことを現代社会で実行することは結構難しい課題です。なぜなら、共有認知そのものが難しい時代となってきているからです。その理由はいろいろとあるものの、私は2つの大きな要因を考えます。

 その一つは、地域住民が共有認知しなければ生きていけない事象自体が少なくなってきたと言うことです。地域の社会や環境について、住民による共有認知が向上すれば向上するほど、地域の利点・欠点は明確になってきますから、地域づくりに向かう住民全体の成すべき活動のエネルギーは強くなります。しかし、共有認知する事象が少なくなれば、地域づくりの意識は希薄化します。さらに、暮らしの満足感に繋がるハードやソフト施策が進んできたため、生活の充足感が高くなり、事業自体に価値が認められず、満足感も得られない構造となっています。共有認知の必要性が希薄になっている時代であることは間違いないでしょう。簡単に言うと、みんな孤立しているのに、満腹かつ贅沢になって来たという訳です。

 最近、気候変動等の影響もあり、極端現象などに伴う災害リスクは高まってきました。また、東日本大震災以降、地震の頻度も増えつつあるように思いますが、災害で、住民が一致団結することはよくあります。災害と言うインパクトは無い方が良いのですが、これらのリスクは、住民の地域環境に対する共有認知を進める上で重要な役割を果たしていると思われます。また、鳥獣被害の問題なども、地域アイデンティティを再構築するための重要な要素であると思えます。認知事象が少なくなったところには効果があると思います。そういう意味では、大打撃にならない程度のインパクトは農村づくりを進める上で大切な要素です。だからと言って、災害があった方が良いとは思いませんが。

 もう一つの要因は根の深い問題です。社会の価値観が非常に多様化している中で、地域住民が環境や社会について共有認知すること自体が難しくなっていると言う問題です。昔のように、地域住民みんなが農家だった時代は、「農地に水が足りない」、「農地を大きく広げたい」と言うようなことは、みんなが同様の価値を見出せます。このように、住民が同様の価値観を持って不満感や満足感を感じている時は、環境や社会の改善目標が同じであるため、事業効果は大きいのですが、多様な属性が共住し、価値が多様化し、生き物も大切だ、景観も考えなくてはならない等、様々な価値評価軸が表出してくると、行政がそれをまとめること自体が難しくなりますし、農業者集団もコミュニティを形成し辛くなってきます。多様な価値集団をまとめることが難しい上に、行政自体がこの多価値化時代に、それをまとめる技術に追従できていないというのもあります。

 こんな時代においては、「モノづくり」ではなく、「モノづくり」のプロセス自体に価値を生むことを事業に取り込まなければ、共有認知をつくることは難しいでしょう。「コトづくり」とも言われています。昨今、「計画段階からの住民参加が重要」等と言われるのは、草の根的に住民参加による地域づくりを推進してきた私からすれば、共有認知を得られないハード事業のためのフォローなのではないかと思ってしまうのです。

 このことについて、地域住民の価値観と事業との関係を模式的に表したのが図5.1です。

         図5.1 単一価値時代と多価値時代の共有認知脳の構造と事業の関係

 住民の多くが、農業だけで生計を立て、農業生産条件の適正化が最重要事項だった単一価値の時代は、図5.1の上の図のように、農業生産条件が重要であると思う以上に、ここで暮らしたいと言う想い(あるべくしてある地域の姿)としての地域アイデンティティは住民の心の中に固定化しています。ひとり一人の脳の中には地域アイデンティティと共にその地域を導きたい価値観が引っ付いて存在しています。集落に5人しかいないということはありませんが、モデルとしては、1つの頭が50~60人程度を表していて、300人ぐらいの集落だとします。本来は、脳の中の想いは、特定の量や形では表せませんが、脳の中のオレンジ色の矩形が脳内にある地域のアイデンティティのようなものと考えて貰えば良いでしょう。そして、それより少し大きないくつかの色で示された正方形が、ある一定の時点でのそれぞれの個人の価値観や想いを示していると解釈していただきたい。

 人には、自分たちはこの地域に住んでいるのだ、ここは自分たちの地域なのだ、これが自分たちの文化なのだと感じる根底の意識(オレンジ色の矩形)があります。これが地域アイデンティティです。よって、もし、「新たに農地を開発していこう」(赤色の正方形)だとか、「環境も大切だ」(緑色の正方形)とか、「工業団地を誘致することが重要」(黄色の正方形)等、様々な考えがあった場合でも、根底にある地域アイデンティティが揺るがないのであれば、一部に事業への反対がありながらも、行政側がアイデンティティをしっかり押さえた事業を展開しさえすれば、表面上は価値観や意識の統一により、事業としての効果は十分得られるでしょう。 しかしそれが、図5.1の下の図のように、地域アイデンティティが希薄化した多価値時代となると、住民の想いやニーズがそれぞれ異なった場合に、地域アイデンティティそのものが希薄なため(図としてはオレンジ色の矩形を削除した)、事業において、集団のつながりはより希薄になってきます。事業としてどう対処するかと言うと、行政はメニューを増やして、あっちこっち向いた様々な想いやニーズに応えられるようにします。80年代以降の行政の対応は、ほとんどがメニュー作りになっています。最近は法的裏付けがないとメニュー存続ができないので、これらの法的根拠を付加する程度に陥っています。要するに、みんなが振り向く八方美人の事業を立てます。でも、メニューが揃わないとか、揃っていないメニューに十分配慮していないとなると、地域アイデンティティがそもそも希薄なので、やりっぱなしの事業となり、事業の効果は低く、場合によっては、地域価値を分断するようになるでしょう。

 それでは、多価値時代において事業は何をしなければならないか。先ほどの形をつくらないために、どうしたら良いのかと言いますと、図5.2にあるように、地域振興の条件整備だけの事業をやるのではなく、地域アイデンティティを形成するところから始めなければならないのだろうと思う訳です。事業を推進する行政は、地域アイデンティティ形成のための情報整理から始め、価値観は多様で、求めているメニューも違うけれども、根本では繋がっている住民の意識形成をしなければならないでしょう。

 地域アイデンティの形成に行政事業が関与するなどと言うと、まるで人心誘導のように思えるが、そうではありません。誇りを持って暮らせるような支援をすることです。事業が目的化してはならないということです。

 こんな事業が果たしてできているでしょうか。いや、まだまだでしょう。ソフトを強化すれば良いなどと言った簡単なことではありません。これを実現するには、今の行政の統合化、効率化とは逆行して、行政職員はもっと地域内へ、住民の傍に近づかなくてはならないでしょう。行政事業はますます難しくなっています。

           図5.2 多価値時代の事業に求められること

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