ChatGPT(チャットジーピーティー)を使って見た(2)

 いゃー、驚きましたね。二週間前にChatGPT(チャットジーピーティー)のことについてお話をしましたが、その後急に、なんだか日本のメディアも大騒ぎし始めました。欧米ではもう少し前から騒いでいたのですが、日本はちょっと遅れているみたいです。最近ようやく連日のように新聞やテレビで取り上げられています。なお、私の妻は新聞でこの見出しを見つけると、私には関係ないということで、飛ばして読んでいます。

 4月10日にはChatGPTを運営するオープンAIのCEO(最高経営責任者)サム・アルトマン氏が来日し、首相官邸で岸田文雄首相と面会した後、自民党の「デジタル社会推進本部」の会合にも出席したということです。ChatGPTは日本語対応がかなり遅れていることもあって、将来的に市場拡大が見込める日本には、積極的に技術開発拠点を作っていきたいみたいですね。そして、この投稿を書いている間にも、今度は、何故そんなに急いで発表するのか知りませんが、4月18日には、農林水産省が共通申請サービスの操作マニュアルを分かり易いものにしていくために、ChatGPTを使うということを農林水産大臣自ら記者会見で発表しました。

 このように、AIが世界的に大きな話題になる中、イタリアのデータ保護当局は3月31日、膨大な個人データの収集が個人情報保護法に違反する疑いがあるということで、ChatGPTの使用を一時的に禁止すると発表したようですが、日本はどうなのでしょうか。同様の心配があるように感じるのですが、無防備に進めている内、実はデータ駄々洩れだったなんてことにならないだろうか。

 つい先日も、画家の描いた絵画が無断で学習用データとして使われていたというニュースもありました。もし、AIがある画家の画風を完璧に学習して、一見では見境のつかない絵が世の中に出回ったら、アイデンティティを失ったこの作家はどう生きて行けば良いのだろうか。本物がより高い価値を得るのならば良いのですが、成り代わられると困ったことになります。

 AIの問題については、ロケット飛ばしたり、電気自動車作ったり、挙句の果てに、昨年にはTwitter(ツイッター)社を買収して、いきなり大量リストラをしたりと、好き放題のお騒がせ起業家イーロン・マスク氏らが、米非営利団体「フューチャー・オブ・ライフ・インスティテュート」を通して、『人間と競合する知能を持つAIは、社会や人類に深刻なリスクとなりうる』との書簡を発表し、GPT4(GPTの現在の最高バージョンのモデルです)より強力なAI開発の半年間の停止を訴えています。この言い分は、AIの倫理的問題点を指摘しているかのように見えますが、本音は、開発に遅れた企業が、AI開発の先陣を切る会社だけにAI市場を支配させたくないが故に、いちゃもんをつけているとも言われています。半年開発を中止したところで、中国は開発の手を緩めないでしょうし、後れを取った企業も、その間にあの手この手で乗り遅れを解消するだけで、本来の問題点である「人類へのリスク」についてはどれだけ検討が進むのか疑問です。

 問題なのは、現在のAIが、無断でと言うか、利用者の知らない内に膨大なデータを集める「監視ビジネスモデル」の中での運用されていることであり、AIそのものに非がある訳では無いと思うのですが、どうなのでしょうね。この辺りのところは私たち一般人には分からないところで、上の方の人たちでしっかり議論してくださいと言いたい。ただ、マスク氏らの指摘の中で、『自分たちでさえ理解できないデジタル知性を開発する統制不能な競争に陥っている』とAI開発者を批判していることについては、私も十分理解できます。

 先日、NHKスペシャルで「福島第一原発事故12年目の新事実」と題して、格納容器内のメルトダウンの様子が、当初技術者が想定したこととはかなり違っていたことが解明されて来たことの報告がありました。ドラマ仕立てになっているのでとても見やすかったですが、中身を見て驚きました。人類はまったく原子力を分かっていないし、技術的に制御できていないのです。人が制御できないものを使うと、いつかこんなことが起こるのは必定であります。

 ようするに「技術は手に収まるものでなければならない」のです。おそらくは「治まり、納まり、修まり」でもなければならないでしょう。

 前回の続きで、こんな質問にどう答えてくれるのだろうかとChatGPTを使って見ました。例えば、集落の総会への案内状を出したいが、文面が浮かんでこない。前役員が残しているものもあるので、それをそのまま踏襲しても良いのだが、とりあえずChatGPTに聞いてみたという設定です。次のような文章が返ってきました。

 伝えなければならないことはおおよそ入っています。たいしたものです。季節の挨拶が入っていないので、「季節の挨拶も入れてください」と問い直したら、『春の訪れを感じる今日この頃、皆様には益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。』という文章が最初に入りました。現在の日本の季節から「春」と判断したのだろう。また、『よろしくお願いします』の一行前に『季節の変わり目でもあり、多忙な日々をお過ごしのことと存じます。おります。』と入りました。位置についてはちょっとどうかと思うが、これはもう少し学習させれば、もっと気の利いた文章を書いてくるようになるかもしれないと感じました。こういう使い方ならいいかもしれないが、倫理的というより、気持ちの問題は残ったままである。読む方はAIが書いたのか人間が書いたのか区別はつかないが、書いた方は心の空白が生じる。これは単に仕事を取られたという問題ではない。仕事であって仕事でない、感情を伝える場が閉ざされることはリスクの一つと言えるだろう。年賀状を印刷してしまうのも、心の入り方が違うとは思うが、まだ文章やデザインを人が考えている分だけマシなような気がします。

 最近、YouTube(ユーチューブ)などには、ICTの専門家から芸能人や一般の人まで、たくさんの人がChatGPTで「○○をやらせてみた」のような投稿が増えていて、その中にはプログラムを作らせてみたなんていうのもありました。一回の試行だけでは不十分なので何度も試行してみたら良いし、日本語の情報が少ないなら、もっと情報を与えてから、生成して見たら良いかも知れない。私もまだ使って2週間程度なので、碌な使い方は出来ていないので、専門家からは、「なんてもったいない使い方をしているんだ」と言われそうなので、もう少しいろいろとチャット(会話)しながら、どう使うのが良いか考えてみたいと思います。 それでは最後に、ChatGPTさんに「人類にとって、AIの開発はもっと進めるべきだと思うか」と聞いてみることにします。

 やはり、AIそのものより、使う側の人の問題なのでしょうね。

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