読書が辛い

 今日は、農村づくりとは直接関係しない話です。『読書の秋』ということで、ちょっと感じたことをお話します。

 短編小説が流行っているようです。数年前には「54文字の物語」なる超短編小説もかなり流行りました。SNS用語を使うなら「バズった」と言うべきか。私の若い頃は短編と言えば、星新一のショートショートでしたが、最近のショートはさらにそれよりも超短編。

 私もここ数年、1万字制限の星新一賞に作品を応募していますが、文才がないため、ショーレースとしては箸にも棒にも引っ掛からないらしく、いつも♪カーン♪。それにしても、1万字ならまだそれなりにキャラクターの性格も固定するし、ストーリーも起承転結となりますが、最近は400字詰め原稿用紙1枚までとかの制限がある小説公募も多く、これは小説の文章力というよりは、SNS脳とも言えそうな違う才能が必要みたいです。

 「言わせてもらえば」の読者の方はよくお分かりかと思いますが、私の頭には、常にしっちゃかめっちゃかに文字が溢れ返っていて、まとめる能力が乏しいので、すぐ本題を離れるし、ついつい要らないことも含めて文章にしてしまい、だらだらと長くなってしまいます。ですから、400字にはとても纏められないし、また行間を読む能力がないせいか、54文字ではさっぱり読み切れない。

 完売続出で即大重版となった今年の話題作、結城真一郎の「#真相をお話します」を入院中に読んでみました。とても面白い作品で、読みやすかったです。しかし、私にとっては、とりあえず読めたというところかもしれない。どうもこれまでの小説とは違い、登場人物の心の動きや情景が読み切れない。筆者はそんなことを伝えたいのではないのだろうが、私の脳が古すぎて、わざわざロジスティックに削ぎ落された枝葉を追ってしまう。

 本研究会のホームページの読者の皆様は、『読書の秋』はいかがですか?

 文化庁が2013年に「国語に関する世論調査」で、読書についての調査をしています(近年は読書の項目は無い)。もう10年前のデータではありますが、この段階で、1か月に本を1冊も「読まない」と回答した人は全体の47.5%で、70歳以上は59.6%と高いそうだ。70過ぎると、小さい字は苦しいですよね。私もそうとう老眼が進んでいて、最近は1時間ぶっ通しで読むと、目が疲れて、頭がくらくらするので、月に数冊程度しか読めなくなった。そういう意味では、ショートショートが多くなる傾向はありがたいのだが、今度は、想像力が乏しくなって、中身を読み切れなくなっている。困ったものだ。

 私の尊敬する松岡正剛氏(まつおか せいごう:著述家、編集工学研究所所長、角川武蔵野ミュージアム館長)はすでに80歳近いが、50代半ばから始めた『千夜千冊』の書評サイトの取り組みはとっくに千冊を超えて、今や1800冊も越えて更新中であるが、読書は、あの方のように、兎に角、創造と編集の間合いで連続的に読むべきなのかも知れない。私が読んでいるのはかなり読みやすい小説なのに、長編は目が疲れ時間がかかって、短編は創造が追い付かないとなると、編集できる確かな情報がない。おまけに今は右手で本が持てないので、1ページ捲る度に本を机に置いて、顎で押さえてと、面倒でたまらない。

 インターネットでのコミュニケーションは、テキストからビジュアルへと移行している。若いネットユーザーは、文字を文字として読むだけではなく、画像として捉えているので、一枚の写真、数秒の動画に数万字以上の圧倒的な情報量の想いをぶち込んで来る。その癖に、読む側の機能はこの情報から自分が欲している分だけを都合よく切り取ってしまうため、筆者の言いたいことがミスリードされたり、読み飛ばされたりすることが多くなってはいないだろうか。コミュニケーションと創作物は異なる目的を持つが、文章を含む表現を介して理解するというところは同じであるから、作者の意図することを読み込めなければ理解は進まない。

 SNSでは、「長い文章は読まれない」。どれだけ良い文章であっても、1秒で理解できるようなビジュアル性がないと、なかなか1歩先に踏み込んでもらえないと言われるが、本当にそうなのだろうか。

 名作でも、最初の一行でこれから始まる物語の期待を膨らませるビジュアルな名文は存在する。「トンネルを抜けるとそこは雪国であった」、「木曽路はすべて山の中である」、「吾輩は猫である」これらは今で言うSNSのハッシュタグ(#)みたいに見える(実際には性格は違うものだが)。大作家でも、1秒の掴みは意識している。だが一般的な小説では、この後の各所でハッシュタグの中身の説明がされたり、醸し出されたりするが、SNS時代の超短編小説は、雪国と言えば雪国、山の中と言えば山の中になってしまい、後は、読者がかなり想像を膨らませないといけない。広げ方は人それぞれだから、捉え方も多様となる。だから受け取られ方は多様で、読者の能力任せとなり、読む力のない私などは、老化に伴う身体的欠陥も相まって、読書が辛くなってしまう。もう一度、心の動きが詳細に各所に反映されている太宰でも読み返して、安心しようかなって思ってしまう。

 まあ、多様性の時代だからと言ってしまえばそこまでですが、ビジュアルの情報量の膨大さに生の文字と文章が圧倒されているだけのような気もする。超短編はSNSに近づく必要はないはずだ。「ハッシュタグ、後よろしく」ではなく、少し脳が委縮し始めている私にも、是非、優しい超短編をお願いしたい。

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