京野菜と下仁田ねぎ

 平成になってすぐのこと。京都のとある集落で農村づくり支援をしていた頃の話です。その集落の農家の方が京野菜の取り組みについて話をしてくれるというので、彼の畑を訪ねました。当時、私は京野菜のブランド化に興味を持っていましたので、九条ネギだとか、万願寺とうがらしだとか、佐波賀だいこんの栽培についての話を聞けると思って期待していたのですが、行ってみると、栽培しているという農地は狭く、雑然としていて、普通の大根やごぼうの脇にちょこっと京野菜が植わっている程度で、京野菜を栽培してどんどんと売り出していこうというほどのことはなかった。その農家の方が、趣味でいろいろと作ってみているという感じでした。

 京都府によって京野菜の定義がされたのは昭和63年で、ブランド化戦略が始まったのは平成元年からで、この農家もこれまで細々とは作っていましたが、何が一番うまくできて商売になるだろうかと模索をしていたところでした。

 一面の京野菜畑の景観を想像していた私が少しがっかりしていると、京野菜にチャレンジするよう普及センターや農協から勧められたということで、「まだまだ研究中やからなぁ」と照れていました。それでも、以前から作っていた万願寺とうがらしはかなり立派で、大きさ、品質も良く、彼も自信をもって、「これなら市内の百貨店にでも出せるな」と胸を張っていましたが、それ以外の野菜は、お世辞にもうまい出来とは言えず、大きさも揃わなければ、味ももう一つというものでした。素人の私が食べてもわかるほどでした。

 彼がいろいろと説明してくれましたが、もう30年以上前のことですから、細部についてはほとんど覚えていません。ただその中で一つだけ鮮明に覚えていることがあります。それは、京野菜のことではなく、「試しにやってみているんだ」と言って見せてくれた『下仁田ねぎ』でした。確かに、京野菜の畑の一角に下仁田ねぎらしきものが植わっていました。

 私が、「下仁田ねぎは群馬の下仁田が産地で、京野菜でもなんでもないですよね」と聞くと、彼が言うには、群馬にいる農家の友達のところに遊びに行ったときに、初めて見て、食べてみた。これは食べ応えのあるネギだなぁということで、苗を分けてもらってきたので、植えてみたのだと言う。

 京都もそうですが、関西の食文化は葉ねぎが主流なので、『下仁田ねぎ』の存在には驚いたそうです。下仁田でしか作れないから下仁田ねぎだと思うのですが、彼は友達に教えてもらいながら、結構苦労してそこそこのものを作っていました。

「下仁田ねぎという名前では売れないでしょう。なんでそんなもの作ってるんですか。京野菜に力入れんと」と、農業のことを知らない私が知った口を叩くと、彼のちょっと怒った回答が素晴らしかった。

「売れんよ。それが何んよ! 自分とこで食べる分だけ作ってみてるんや。僕はこれ食べてから、すき焼きは九条ねぎより下仁田ねぎやと思うてるんや。なんで作ってるかって言われると、作れるかどうか試したいからや。京野菜の栽培もそうやけど、農業は日々研究やがな。いろいろと工夫して考えるんが好きでやっとるんよ。京野菜だけに執着したらあかんのよ、何でも試してみんと」

 私は全国の多くの農村を歩いてきましたが、いつも思うことがあります。優秀な農家はそういうものかもしれませんが、とにかく研究熱心なのです。そりゃそのはずです。一年に1回ないしは2回程度しか作れないので、一回一回はもの凄く大切な一回です。過去の気象条件と土壌条件をすべて覚えていて、あの時どうだったから、今年はどうしようと、複雑な条件の組み合わせを考えて、さらに時々刻々と変化する今年の生育状況を、ある時は植物学者、ある時は土壌学者、ある時は土木技術者となり、そして常に農業経営者となり、現代のメモリーの最大容量や最新センサーやAIの能力を超えて最適解を求めていく。私がやっている研究は、それから比べると大したことないなぁと思った次第です。

 そして、研究する農家は必ず地域に数軒いるように思います。それなのに、農村づくりとなると、急に手本や回答を最初から探そうとして、専門家を呼んで任せてしまいがちだ。初めから何か手に負えないものとして考えられてしまうようです。

 この下仁田ねぎの農家も、集落の役員さんだったので、農村の活性化には積極的で、会合には出て来るのですが、いつも端っこの方に座って、みんなの意見を聞いているだけで、野菜のこと喋らしたら終わらないくせに、農村づくりの議論となると無口になる。

 その当時、私もまだ農村づくり支援の専門家としては駆け出しでしたので、彼の研究力や挑戦心をうまく農村づくりの活動に巻き込むことが出来なかったのですが、その後、地域リーダーや普及員さんたちや私と話し合う中で、徐々に、作物づくりと農村づくりの根幹は同じだということが分かって来たようで、その後、次々とアイデアを出して、実践・修正して、地域の活性化に貢献しました。その後、私が全国で農村づくり支援をしてきた結果として、今ならはっきりと言えます。『熱心な農業研究家ほど農村づくりに長けている』と。

 もし、あなたの集落にみんなとは違うものを作り出した人がいたら、是非、早めに農村づくりの活動にも巻き込んでください。間違いなく、最後は『農村づくり』に填まるはずです。考えることが好きな人たちですから。ちなみに、下仁田ねぎの彼は、数年後、万願寺とうがらしを中心に京野菜は結構広げていましたが、下仁田ねぎは諦めていました。

「下仁田ねぎはやっぱりここらへんでは合わんのかなぁ。群馬の友達から毎年食べる分だけ送ってもらうことにしたよ」とさ。

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