「老いて子に従う」ためには

 昨年の夏、肩を骨折して手術、退院してから1年が過ぎました。毎週1回のリハビリも1年間欠かさずやってきましたが、どうも元の状態には戻りそうにありません。自分では、もし元通りにならなくても、まあそれなりに生活はできるし、大した問題ではないと思っていましたが、歳が行くとリスクを素直に認められないみたいです。先日、息子たちにかなり説教されました。

 「親父はたいしたことないと言っているが、問題を見つけられず、たいしたことないと言うこと自体が歳を取ったという証拠なんだよ」、「重たい荷物を運んでいて、肩を庇って腰に来たらどうするんだよ。ダウンライトの電球の交換だって、片手でやっていたら、脚立から落ちるかも知れないじゃないか。”なんとかなる”、”たいしたことじゃない”ではなくて、すべて大した問題なんだって考えるべきだよ」

 泣き虫で、怖がりで小さかった息子たちが、いつの間にか逞しく大きくなりやがって、このぶっきらぼうな優しさに、親バカが泣けてくる。

 『老いては子に従え』は、まだ早いと思っていましたが、どうもそうでもなさそうです。場合によっては子に従った方が生きやすいかも知れません。重たい荷物を運ぶのも、電球の交換も一応できるけれども、これらをたいした問題ではないと言わずに、たいした問題が潜んでいると考えるべきで、その時は、子に素直に頼って良いのだと思えてきました。ただ、なんでもかんでも子に従えば良いということでもなく、大切なのは、子の想いと親の想いを擦り合わせて、互いの理解の上に「従え・従う」はあるべきなのでしょう。そんなことを考えていると、昔関わった農村づくりのことを思い出しました。

 そこの区長さんは、全然やる気が無い人でした。農村づくりなんて面倒だと思っていたようです。「この地域は、自然・文化資源ともに豊かです。みんなで育てていきましょうよ。今から始めないと、気が付いた時には何もなくなっていたなんてことにもなり兼ねないですよ」って、脅し込みで盛り立てようとすると、「私はもう歳だから、老いては子に従えですわ。これからは若いもんに任せますわ」と、区長さんはまったく乗ってこない。それじゃ、若者を引き込んで来るのかなと思いきや、若者を引き込むことさえやる気がないらしい。しかたがないので、私が、いろんなところに声を掛けて、だんだんと輪を広げていくと、区長さんは楽しそうに、「いゃー、私は何も出来んのんで、ありがとうね」って他人事になってしまっている。農村づくりを否定はしていないが、自分で動くつもりはなく、そこはなんでも『老いては子に従え』で乗り切ろうとする。

 農村づくりを始めることに賛同する人たちが数人集まったので、決起集会を開いてもらったが、その席でも、役員への連絡だけはなんとか回してくれたが、会が始まると、横の方に座って、「これから私らの集落の活性化のための活動を始めますので、山本先生よろしくお願いします。後は若いもんに任せます」と、「子に従え」と言うよりも、「子に任せて逃げろ」ではないかと思うほど無責任でした。

 30年も前の話なので、私も若かった。「先生」なんて呼ばれると、ニコニコしながらいそいそと司会席に座って、みんなに活動について説明をしてしまった。説明している内に、”これ誰のための農村づくりなんだろう”と疑問に思えてきて、「今日は最初の集会ということで、私が説明しますが、次からは住民の皆さんが主役ですから、間違わないように」なんて、自分で自分を庇ったりなんかしている。住民主体で進める農村づくりをモットーとしているのに、今考えると恥ずかしい話で、その流れさえ作り切れないほど私の農村づくりの技能は未熟でした。

 いくら、やる気のない人任せの区長さんであっても、ちゃんと彼を前に立たせて、農村づくりは大した問題であるということをしっかり認識してもらってから、「子に従う」という形を構築すべきでありました。なんとか軌道修正しようと試みましたが、なかなか区長さんは手強く、そのうちに任期満了で、やる気のある区長さんに交代になりました。その後、農村づくりは立派な活動になっていきましたが、私の技能不足もあり、最初はこういう苦労があったのです。

 何が言いたいのかと申しますと、「老いて子に従う」ためには、従う内容まで子に任せてしまうのではなく、自分や自分の周りで何が起こっているのか。そして、それに自分はどう対応できるのか。対応できないことは何かと考えていく中で、子に従うことの重要性を見極め、ようやく従う姿勢が構築できるということです。

 『老いては子に従え』は、元々は中国の仏典に由来する『三従』の教えの中の一つで、全体は、「若い時は親に従い、盛りにしては夫に従い、老いては子に従う」となっていて、女性の人生規範みたいですが、今では時代錯誤で、最後の文の「老いては子に従え」だけを主に親子関係で使うようになったようです。意味も、年取ったら一方的に子の言うことを聞けということではなく、互いに頑なになってはいけないということを諭しています。 互いに「大した問題」の所在を確認し合い、親は子の意見に素直に耳を傾け、子は親の想いを汲み取ることが大切で、扶助し合うことが本来の意味と思えます。これを農村づくりに置き換えると、年寄りは若い世代の意見に素直に耳を傾け、若い世代は年寄りの想いを汲み取ることが大切で、「老いて子に従う」のためには、老いた者も常に考え、行動しつづけなければならないということです。

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