マネスキンから農村づくりを考える

 かなり体力が落ちてきたので、今年は無理かなと思いましたが、なんとか今年もサマソニ(サマーソニックフェス2024TOKYO:幕張メッセ)に行くことができました。我が家の夏休みはここ数年フェス三昧です。私の体力がおそらくは持たないので、野外フェスにこそ行けませんが、今年は今まで一緒に行けなかった長男もうまく休暇が取れて、妻と息子二人の家族4人勢ぞろいで行くことができました。長男は私が怪我をしないように付き添いみたいな役割もありますが、音楽好きの老後暮らしとして、家族みんなでロックフェスに行けたことは家長冥利に尽きます。(みんな独立しているので家長と言うのは変かな)

 毎年いくつかのフェスにも行き、たくさんのアーティストの単独ライブにも行き、音楽評論家にはとても及びませんがそれなりにアーティストのパフォーマンスを実感してきた中で、今年のサマソニでマネスキンのステージを終えて、少し面白いことに気づきを得ました。様々の有名なアーティストからこれから売り出しのアーティストまでを見ているうちに、アーティストの『熱』の伝え方がどうも違うのではないかというものです。当たり前っちゃ当たり前なのですが、興味深いのは『熱』の発散と観客との増幅の方法についてのタイプの違いがあるということです。

 今年の私の狙いは17日の夜のヘッドライナー(トリのことです)を任されたマネスキン(イタリアのロックバンド)でしたが、彼らの観客への熱の伝え方は彼らの多くの楽曲にあるような直情的なマイノリティへの敬愛を、観客に直接的にぶつけてくる感じだと思いました。彼らはグラムやファンクなところもあり、只々楽しくやっているだけのようにも見えますが、ベースの進行とパーカッションのリズムからは基本的には社会への反抗精神を宿したロンドン由来のパンクロックとみた方が良いのではないかと思っています。いろいろと要素があるのでオルタナティブロックとされていますが、そんな分類はどうでも良くて、面白いのは彼らの『熱』の伝え方です。彼らの直情性を観客というか会場というかそれらを一つの社会と見たてて、熱を発散し叩きつけているところが面白いのです。もちろんこういうアーティストは昔から他にもたくさんいますが、最近では少なくなったように思います。

 私のフェスは体力的に一日しか持たないので、2022年の初来日でサマソニに出演した時は2日目だったため観逃しましたが、二日目も行った妻や次男からはKingGnuも喰っていたと聞いていましたし、ワールドツアーの「Ruch!(ラッシュ)」も好評でしたが、行けませんでしたので、どうしても今回だけは見逃せませんでした。観てみるとなるほど熱い。最近流行のドラマ「新宿野戦病院」のヨウコ風に言うならば「もんげー熱い」。バンバンと観客に向けて社会への反抗の過激な歌詞を研ぎ澄ましたナイフのようなサウンドに載せてぶつけてくるではありませんか。あの音楽はおそらくフェスティバルなんかでやっちゃだめだろう。もっと小さなライブハウスみたいなところの方がパフォーマンスの意味は観客に伝わるように思いました。

 さて、私がロックライブを通して紐解いたアーティストの熱の話ですが、アーティストから発せられる熱というものには3つのタイプがあるように思います。ここで言う『熱』とは「信条」と捉えても良いし、「訴えたいこと」と捉えても良い。すなわち魂の叫びみたいなものであるでしょう。マネスキンのようにアーティスト自身が大きな熱を発して、それを観客という社会にぶつけ、それが増幅してより大きな熱を帯びて大きな魂の塊が生成される場合が一つ目、簡単に言うと、『一体化による熱増幅タイプ』。アーティスト自身はそれほど大きな熱を発していないが、観客にぶつけて初めて大きな熱が生まれる場合が二つ目、これは『全体的な熱発散タイプ』という言いことになるかもしれない。そして最後のタイプがアーティストの発する熱が観客に吸収される場合です。これは多くのアーティストに当てはまりますが、『熱吸収タイプ』とでも言えましょうか。アーティストの大小さまざまな熱を聞く側、見る側が消化して、それぞれが個別に感動するものです。大きな熱を持ったアーティストは多くの観客に感動を与え、小さな熱を持ったアーティストはそれなりにということになります。もちろんタイプが複合したアーティストもいますが、少なくとも、私は『熱』の伝え方がこの3つに分解されると解釈しました。これは曲の良し悪しの問題でも、好き嫌いの問題でもありません。『熱』というものの感じ方の問題です。

 ここで、農村づくりを振り返ってみた時に、この『熱』の伝わり方はどうなっていただろうかと思い返すところ、どうも同じような見方ができそうです。大きな熱のあるリーダーや支援者、言い換えれば、大きな夢を持つ人が住民や関係者に夢を投げかけて夢を増幅させる場合は『一体化による熱増幅タイプ』、リーダーには小さな熱しかないが、住民や関係者にぶつけている内に熱が全体へ発散して来る場合は『全体的な熱発散タイプ』、そして、リーダーらの熱が住民や関係者に吸収される場合は、感動や賛同は得られますが、そこから新たな熱は発しない『熱吸収タイプ』であるため、みんなで築き上げるものにはなかなか育っていかない場合が多い。アーティストの観客への『熱』の伝え方と農村づくりの地域リーダーの『夢』の伝え方はよく似ているのです。

 農村づくりおいて、地域リーダーや支援者の活性化に向けた熱量が小さいのはもちろん駄目ですが、大きい熱量があるからと言って、必ずその熱が増幅なり発散されると考えては駄目で、重要なのは住民へのぶつけ方です。『熱吸収タイプ』で終わらないなんらかのぶつけ方があるのだと思います。私はこの方法論についてはずっと見逃していました。『熱』があれば必ず伝わると思っていましたが、今回、マネスキンを見ている内、農村づくりの技法としてもう少し紐解く必要がありそうだと感じました。アーティストなら『熱吸収タイプ』を徹底したアーティストであっても、熱量が大きければかなり売れるが、農村づくりはそうはいかないからです。

 歩き疲れ、棒のようになった足を引きずりながら、怪我だけはしないように歩き、長男に守られながら、アーティストたちを見ている内にそんなことを感じてしまい、観客という一人の社会細胞としてマネスキンに魅了されてしまったその日の私でした。

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