赤ちゃん置忘れ症候群

 こないだ、郵便局で手紙を出して、スーパーで買い物して、帰ろうと思っていたら、手紙を出さずに帰ってしまった。行きも帰りも気が付かず、手紙をバックに入れたまま、家に戻り、夕方まで気づかなかった。と言うことで、再度、郵便局に行く羽目になった。

 私の「うっかり」ではないが、今年の春先に少し危ない話があった。茨城県内のある地区の76歳の区長さんに現地でお話を聞こうと思って、区長さんの御宅から、役員さん1人と区長の奥さんと私が区長さんの車に乗り込もうとしたとき、後部座席に乗り込もうとした奥さんがまだ片足しか入れていないところで、区長さんが車を発進させてしまい、奥さんは少しよろけた。後部座席に先に乗り込んでいた役員さんが「だめ! 待って、止めて!」と区長さんに声を掛けたので、直ぐ止まり、奥さんは怪我もなく、事なきを得たが、危ない所だった。区長さんはもうとっくにみんな乗り込んだものと思っていたらしく、ドアが開いているのを確認せずアクセルを踏んだようだ。

 私はすぐに何でも口に出してしまう性格なもので、「区長さん、そろそろ免許返納じゃないですか?」と言ったら、「この辺では、車無いと生活できないよ」ってムッとされた。とりあえず、体調が悪いのかもしれないと説得し、私の車に乗り換えてもらって移動したが、しばらく変な空気に包まれていたところに、奥さんが「おとうさんは、こないだもあったよね」とぼそぼそと言うものだから、ますます車内はどんよりした空気に包まれました。

 私のうっかりも、区長さんのうっかりも、老化による脳機能の低下によるところが多いのかも知れないし、うっかりがこの程度なら良いのだが、人命にかかわるような問題になると、老化やうっかりだと終わらせることができない場合もあるので、気を付けなければならない。

 先々週でしたか、大阪府岸和田市で、父親が保育所に娘を送って行き、降ろしたと思い込んでしまい、車に置き去りになってしまった事件がありました。今年は9月にも静岡県牧之原市で認定こども園の送迎バスに女児を放置した事件がありました。状況はそれぞれ異なり、管理運営体制の問題もあるものの、基本的には、確認・連絡の徹底不足や注意力散漫によるものが発端となっています。こういう事例は今年6件に及ぶ。お亡くなりになられたお子様のご親族の方には心よりお悔やみ申し上げます。

 二度とこのようなことが起こらないように対策を打つことが重要ですが、最近の様々な統計情報を見る限り、表面的な対策だけではどうにもならない問題のようにも思います。 先ず嫌な数字としては、車への置き去りの件数ではありませんが、内閣府の子ども・子育て本部の調査結果にこんなのがあります。全国の保育所や幼稚園、認定こども園での死亡事故や重篤な事故は、年々増加していて、2021年には2347件となっているらしく、下の図のようにこの6年間で4倍にも膨れ上がっているというのです。この増加はあまりにも急激すぎないだろうか。

 また、東京都が都内の認可園等に対して、散歩中の保育園児の置き去りや迷子について調査したところ、17年度は計14件、18年度は計18件だったが、19年度は計34件、20年度は計28件と増加傾向だという数字も出ています。

 更に、子どもの置き去り検出システムを輸入販売している「三洋貿易」の調査結果ではありますが、20~69歳の2652人に聞いたところ、「この1年間で車に子どもを残したまま離れた」と答えた人は583人もいて、そのうち、14人が子どもがいることを意識せずに置き去りにしてしまったというのだ。5人に一人って多くないだろうか。

 最近では、このような赤ちゃんの置忘れの不注意のことを『赤ちゃん置忘れ症候群』と呼ぶのだそうです。多くの国民が、「子供は置き忘れないだろう、物じゃないんだから」と思うだろうし、「親の愛情の問題じゃないの」、「私は絶対しないよ」なんて言うかもしれませんが、どうも愛情の強さとか責任感の強さとかの問題だけではないらしい。

 人の脳は、多くの行為をしなければならない時、一度に行為全部を記憶しておき、普通の状態では、記憶を辿って順番に正常に仕事を熟していくが、悩み事があったり、別のことを考えていたり、過度なストレスがかかった状態で、いつものルーチンと違った行動をしようとすると、記憶していた行為がすっぽり抜けてしまうことがあるというのだ。「症候群」と名前が付くと、まるで病気みたいに思えて、しかたのない社会現象なのだと他人事のように思ってしまいがちだが、仕方ないなんて絶対に言えない、済まされない。

 対策としては、親と施設との連絡体制の徹底、保育施設内での保育士同士、保育士と事務員、運転手などとの情報伝達システムの確立、日常的な訓練、そして、ICTを活用した安全対策とその利用システムの操作訓練などが考えられます。しかし、デジタルとアナログが混じれば、それによってまた新たに生じるミスもあるはず。やれること、考え得ることは全部やらないといけないのだけれど、最も大切なのは、やはり発端であって、一人一人の注意力をどう鍛えるかが大切ではないだろうか。

 どんなことでも確認するという習慣づけをすれば、うっかりミスは減るだろう。電車の運転士みたいに指さし確認の習慣も良い方法かも知れないが、それでも、ルーチンから外れた時に、逆にその習慣に引っ張られて、特別な仕事を忘れるかもしれない。

 一番重要なのは、日々の生活の中で、常に五感を研ぎ澄まして、人間の本来の力である『暮らしの知』(農村づくり講座「暮らしの知を地域活性化につなげる」を参照)を鍛えることではないかと思う。特に、社会や環境の状態を読み取る力である『自然知』を鍛えることは重要だ。記憶としてやるべき行為が先にあるのではなく、どんな場合にでも、先ず周りを見ることから始めるのだ。記憶に依存すると、脳は見たいものだけを見ようとするものだが、それに引っ張られてはいけない。周りにある一つ一つの事象を確認し、それを体感する力を養うことが大切だ。ものすごく単純な例で言うと、テレビで「今日は寒いのでコートが必要でしょう」と言われても、それは参考にするとしても、大切なのは、自分がどう感じるかを確認し、コートを着るかどうかを判断することだ。周りをよく見て、聞いて、嗅ぐことができれば、自動的に注意力も向上する。記憶に頼って行為を引っ張り出すのではなく、今の現状を体感できる力から、今何が起こっているかを読み取って行動すべきなのではないだろうか。

 農村づくりだけでなく、社会で起こっている多くの問題の根源を見つめると、現代人は生活する力そのものが薄れていて、なんとなく『国民総注意欠陥障害』に陥っているのではとしか思えないのだ。「赤ちゃん置忘れ症候群」も、単なるうっかりというよりは、その障害の一つなのかも知れない。 私も、まだまだ老化なんて言葉で済ませてはいけない歳だ。五感のセンサー器官は衰えているだろうけれども、「自然知」を鍛え、もっと周りをよく見て、その環境が今そこにある意味をもっと考えてみたい。

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