情報共有は柔軟性が大切

 「私はあなたのことは何でも知っている」とでも言いたいのだろうか、他人の過去の記憶や想いに、自分なりの解釈をつけて、ずけずけと他人の世界に入り込んでくる人が増えている。「あなたが私の過去や考え方をどこまで知っているというのだ」と言い返したくなる。中高大学時代、働き出してからも互いに関係しあっていたというのならまだ理解できる。しかし、たかだか十数年程度の付き合いであるにも関わらず、あなたと私とのその短い人生の付き合いの中で、どこまで私の記憶や想いが共有されているというのだろうか。親子であっても互いのすべての情報を共有しあっているとは言えない。だから、優秀なお母さんだって、子供に対して、「あんたの思っていることなんて、全部かあさん分かっているんだから!」なんて言いたくなるかもしれないが、あまり言うもんじゃない。

 「そう言った、言っていない」ぐらいの記憶の差異ならまだいい。こっちだって記憶が定かでない場合があるからだ。でもひどい場合は、「その時、あなたはこう思っていた」と、人の気持ちまでも推定して、私の解釈に間違いないと根拠なく確信を付いたような顔をして、その情報を確定してくる人はとても厄介です。私も妻に「あの時そう言ったじゃないか」と詰め寄ることも以前はあったが、最近はもうそういう言い方はしないようにしている。自分の記憶が確かでないことも結構増えて来ましたし、その時の気持ちなんて私だって自分のことを十分理解してないかもしれないからです。という訳で、一先ずは、「そうだったかなぁ」と曖昧に返事をして引くに引けない喧嘩になるのを避けるようにしています。負けた勝ったにならなければ、とても暮らしやすいですし。

 先日、ある人との会話でこういう事例がありました。私が「ここは一度来たことがあるよ」と言うと、「それは違いますよ。別の場所ですよ」と、彼に否定されてしまった。情報共有に差異が生じた訳です。私もそう言われて、自分もだいぶ耄碌してきたのかなと思いましたが、帰って調べてみると、やっぱりその場所には一度行ったことがありました。彼と付き合いを始める前のことで、彼が知らなっただけなのですが、彼は自分の知っている範囲で、それが絶対の事実であるかのように判断して、「行っていない」と決めつけた訳です。極めて失礼なことです。でもこちらも、目くじらを立てて、「いいやそんなことはない」と反論するほどのことでもないですし、そこに行ったか行っていないかで仲違いをするような大問題でもないので、それ以上はその話はせずに終わりましたが、やっぱり行っていたということが確認出来て、私の記憶力も衰えてはいなかったと安堵しました。この歳になると、人を非難することより、自分の安心を確保することの方が大事になってくるようです。

 さて、実は今日の話は、その失礼な彼を糾弾しようという話でも、私の記憶の確かさを誇る話でもなく、農村づくりにおける住民同士の情報共有とはどうあるべきかということについての話となります。

 古い話になりますが、北海道のとある集落で集落環境点検マップづくり(地域資源探しのワークショップ)をしていた時に、Aさんが「俺はこの川でイトウを釣ったことがある」と言ったところ、Bさんが「いや、Aさんが釣ったのはその川じゃない、俺もその時一緒にいたから、あっちの川だよ」と言い出した。地域資源の洗い出しをやろうとしている活動だったので、AさんもBさんも自分の記憶の正しさを主張して、しまいには喧嘩になってしまいました。ファシリテーターをやっていたまだ若かりし頃の私は、どのようにしてその場を収拾するか悩みました。両者からしたら、情報は正しくあるべきだと思っているので、自分の出した情報に間違いはないとどうしても主張したいのです。生態調査をしている訳では無いので、このワークショップでは実際にはどっちでも良いのですが、問題はそこにではありません。互いの真剣さの勝負みたいなことになってしまった訳です。AさんがBさんに「俺が釣ったのはお前と一緒に行った時じゃないよ。只、あっちの川でもあんたと一緒に行った時にも釣ったかもしれない」なんてフォローして言ってくれれば、良かったかと思いますが、互いに一歩も譲らないものだから、「俺が釣ったのはこっちの川」、「お前が釣ったのはあっちの川」だと、違う川であることを主張して困ってしまいました。

 そこで私は、「農村づくりの地域資源探しで大切なのは、情報の正確さではありません。互いに経験したことを思い出したり、実際に現地調査で調べたりして、地域にはお宝がたくさんあるじゃないかと気づき合い、情報共有することです。どちらが本当か、どちらも本当かは、それはまた今度改めて調べてみましょうよ」と言って、なんとか切り抜けることが出来ました。

 「情報共有」とは、同じ情報内容を参加者みんなが同等に持ち合う事ことでありますので、一般的には、持ち合う情報がバラバラであってはいけないものであります。同一情報を持てるからこそ、それを利用して効果的に戦略を作れるものであります。しかし、相手の情報を否定したり、気持ちを踏みにじってまでも情報を統一する必要はないと思います。互いに違った情報を持っていても良いのです。重要なのは、特定の事実だけが正しいと固定せず、自分が過去に培った価値観も固執せず、情報もその時に抱いた気持ちも、常に多様であると思考し、間違いが分かった時は素直に情報や想いを書き変える柔軟性を養うことであります。そういう人間性づくりこそがワークショップの重要な役割であり、農村づくりを進展させる一歩になると思います。だんだんと歳が行くと、この柔軟性が失われる傾向にありますが、そうならないように日ごろから気をつけたいものです。

関連記事

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。