AI活用で失われるもの

 今年の4月に、ユーザーが入力した質問内容を理解し、まるで人間が書いたかのような自然な文章で回答を返してくる『ChatGPT(チャットジーピーティー)』なるものが世の中に広まりつつあるというお話をこの「言わせてもらえば」のコーナーでさせて頂きました。その頃からChatGPTだけではなく、生成AIについての話題が毎週のようにメディアで飛び交い、今では、音楽、画像、動画を生成するAIもどんどんと出てきています。文学賞「星新一賞」では初めて、AIを使って執筆した小説が入選したりして、ここ数年、せっせと我が古びた頭を柔らかくしながらアイデアを絞り出し、文章を捏ね繰り回し、作家気取りで作品を応募しているのに、一次審査にも一向に引っ掛からない私としては、なんだか創造にかかる分野でもAIに負けたような気になって、「悔しいです!!」って古いか?

 最近ではChatGPTを開発したOpenAI(オープンエーアイ)社の生みの親であるアルトマンさんが、社内の内紛でCEO(最高経営責任者)を解任されたり戻ったりで、大騒ぎしていましたが、今年の流行語大賞には、『生成AI』も『ChatGPT』 もノミネートされ、とにかくAIの話題に事欠かない一年でありました。

 ただ、AIが何たるかを知らない素人でも、おおよそのことを聞くと、誰もが開口一番、「そんなもの使って大丈夫か?」となり、メディアでも「・・・便利になる一方、今後その活用による安全性が課題となって来るようです」と最後は締めくくられます。

 ChatGPTが公開されて1年、世界でこれを使っている人口も1億人を超えたということで、11月30日のNHKの「ニュースウオッチ9」では生活への浸透について報道されていましたが、それを見ていると、やっぱり「あれあれ?」と思うことがありました。教育現場での活用の事例です。

 とある小学校での活用事例(実験授業なのかもしれない)で、地域の水資源について考える授業だということでしたが、小学生が自分の席から各人自分の意見をタブレットに入力すると、100以上の意見が先生の手元に上がっていきます。先生が生成AIにこれらの意見をすべて入れてまとめるように指示すると、15秒ほどで10個の意見にリスト化されるというのです。これにより何が教育効果としてあったのかというと、意見を取りまとめる時間が短縮され、話し合いに多くの時間が割けるようになったと言うのです。素早いAIの取りまとめに反応して、子供たちが活発に発言するようになったと言うのです。先生へのインタビューでも、「子供たちの議論を活性化させる意味では非常に効果がある。自分の考えと違う考えであれば、堂々と主張するという癖がついてきた」と高く評価していました。

 しかし、これちょっと危ない。以前からもAIだけではなく、ICTの導入に当たって必ず考えておくべきこととして、「何かが便利になれば、便利の中に『失われた機能』がある」と私は言ってきましたが、この学校でのAIの利用の仕方で気になるのは、もし、この授業が子供たちの意見を積極的に言わせることを学習効果として狙っているだけなら良いが、乱雑に出された意見、混沌とした意見、それぞれが同じような意見なのに言い方が違っているだけで対立してしまっている意見を、どうやっていくつかの項目に整理していくのかということも含んでいるなら、その学習はスポーンと無くなってしまっているという点です。授業と言う短い時間の中で、整理作業はやめて、子供たちの自立性を養うための意見交換に力点を置いたのだと言うことかも知れないが、もし、多様な意見を整理するという学習は生成AIに任せてしまえばいいや、子供たちの作業ではないと考えているのなら、私は間違っていると思うのです。なぜなら、混沌とした意見を整理するのも意見交換に移る場合の重要な前提学習だと思うからです。私は教育学者ではないので間違っているかも知れませんが、少なくとも、整理過程がある場合とない場合の学習効果も比較もしておいた方が良いだろうと思うのです。

 もう一つは、AI家庭教師の活用事例でした。子供がChatGPTを使いながらこう言うのです。「人間ってなると、気を遣っちゃったり、聞き方を工夫したりしないといけないけど、ChatGPTだと何分でも待ってくれるし、自分のペースで話していける」と。

 この事例では、父親が子供の隣にいて、うまく誘導しているようだったので、親子の会話も微笑ましく、AIを家庭教師としながら、親の教育方針も入れていく、新たな家庭教師&家庭学習の形が見受けられたものの、これも子供の感じ方自体には違和感がありました。子供は素直な意見を言っているので何も悪くありません。「コンピューターは機械なので、機械に気遣う必要はない」のはその通りだし、そう思って良いのですが、だからこそ、そこに問題があるように思えるのです。本当に、AIも含めて誰かにものを教わる場合に、知識や知能だけの効率性に特化して良いのでしょうか。AIに質問をしながら答えを導いていく場合でも、聞き方の工夫は必要なので、この部分は人間もAIも変わりないと思いますが、「気を遣う」という機能は排除して良いものだろうかという疑問が残ります。例えば、人間の家庭教師が家に来る、厳しく言われるのが怖くて聞きにくいとか、性格が合わないので嫌いみたいなのがある中で、それでも、一端この人に教えてもらうと決めたのなら、うまく心を通わせながら、また、それがお兄さん大学生だったら、ため口をたたくこともあるが、年上の先生であることで、尊敬と緊張もあったりして、気を遣いながら、人との接し方も学んでいくものなのではなかろうか。そういうのは、家庭教師に求めなくても、他で学ばせれば良いと言われる方もいるかもしれないが、私は、人と人の関係とは日常どこでも発生するもので、場面を分けるものではないし、教えられるという人間関係では、特に「気遣い」が必要だと思います。生成AIで、子供の質問に気を遣わせるぐらいのものが出てきたら面白いとは思うが、いかがなものだろうか。更に、おそらくはAIを活用することで今は見えていない多様な機能も失われているのかもしれません。『生成AI』活用の絶対条件は、この『失われた機能』を見つけられるかどうかであり、その上の活用選択であって欲しいと思います。

 吉田松陰先生が膝突き合わせて教えてくれる松下村塾で、同じことを講義しても、捉え方の違う塾生が生まれるものです。塾生一人一人の気の遣い方もちょっとずつ異なることから生まれる思想の違いみたいなものもあるでしょう。それが明治の偉人の多様性を産んできたようにも感じるのです。遠くにあるクラウドのAIが気を遣わせない教育をするあり方は、立ち止まって考えてみるべきだと思います。

♪松の雫はくさかに宿り、花はかつらの枝に咲く♪と唄われるような連綿とした教えは、教えてくれる人への尊敬と互いの気遣いの底に流れている。これが求められるべき教育であるように感じるのです。

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