経済安全保障はどこにあるのか

 今日は私の不得意な経済分野について考えてみます。経済安全保障についての話なのですが、その前にちょっと別のお話からスタートします。皆さんは『コモンズの悲劇』という言葉を聞いたことがありますか。

 誰でも自由に活用できる共有資源、例えば、放牧地や漁場ですが、こういう場所の資源管理はたいへん難しい。なぜならば、経済合理性から言うならば、誰でもが利己的に利益の最大化を求めるため、法・制度的な規制が無い場合は、過剰に資源を摂取し、特定の空間内での資源の劣化が起こるからです。これは、ギャレット・ハーディンというアメリカの生態学者が1968年にサイエンス誌に投稿した「共有地(コモンズ)の悲劇」での理論です。

 この理論は今では、地球温暖化やオゾン層の破壊など地球環境問題を示唆しており、コモンズの悲劇が地球というグローバルな空間で発生している悲劇であるとみなすことができます。

 それじゃ、共有地を個人に分断して、私有化し、自分の放牧地や漁場はここだけと特定して、その内部だけで資源利用を完結し、外には資源を漏らさないようにすれば良いのではないかと考えてしまうが、共有地という面は法的には分けることができるが、実際には水、空気、生物によって生態的に繋がっているため、共有地が本来の機能を果たせるのは一つの塊として存在するからで、資源としては不可分なものであり、細分化されかつ錯圃状態になれば、生産性の効率化や拡大はそれ以上望めなくなり、個人の独り占めや我儘が多数の不利益に繋がってしまうことになる。所謂『アンチコモンズの悲劇』が発生するのである。

 この理論は、アメリカの法学者マイケル・ヘラーらによって提唱されたもので、『コモンズの悲劇』が資源の過大利用が問題になるのに対し、『アンチコモンズの悲劇』は、資源の過少利用による社会の不利益のことを言う。所謂、グリッドロック経済問題である。

 具体的な例で説明すると、極度に土地を細分化し所有してしまうと、その空間の住環境なり生産環境は劣化してしまい、土地を広げる以外に個人利益の拡大は望めない。土地を再編、統合して、住宅地なら公園を作るとか、農地なら水路や道路を作るというコモンを供給することが望ましいが、この計画に一所有者でも反対すれば、それを実現することは難しくなり、次第に資源管理は放置され、更に荒廃が進むという社会的ジレンマが発生する。これが『アンチコモンズの悲劇』である。これは知的財産についても同様のことが発生する。基礎研究分野での特許が乱立すると、様々な特許を組み合わせて開発される出口製品の開発には、権利調整の困難、取引コストの高騰等が発生し、支障をきたす。私有化によって何も回らなくなるのは大きな経済損失と言える。

 西欧諸国の共有地(コモンズ)がそんなジレンマを起こしている中、日本のコモンズである入会地では、アニミズム思想と日本文化的規範(慣習)によって、『コモンズの悲劇』を免れました。また、農家所有による分散錯圃農地についても、問題が残ってはいるものの、それは規模拡大の進展のレベルの問題(規模拡大のスピードと合意形成の遅延)であって、基本的な生産性の改善については、明治時代の耕地整理法によって、水利施設の整備とあわせて分散した土地を所有者間で交換させて区画の規模を拡大させ、更に戦後は、土地改良法の制定により、耕作者の3分の2の合意によって、土地の交換を換地という行政処分で実施できることで、農業の近代化、規模拡大による生産効率性を追及することを可能にし、『アンチコモンズの悲劇』にも対抗していると言えます。小さくて少ない資源を有効に活用する日本らしい共有システムです。

 もちろん、今のICTの進展について行けるほどの効率性は追及できていませんが、そもそも土地問題は経済的枠組みだけでは動かない面があり、『アンチコモンズの悲劇』にならず、かつ『コモンズの悲劇』も回避するは難しいと思います。なのに、日本の入会地が二つの悲劇をそれなりに回避しているのは、その根底に、自然との対峙の仕方を位置付けるアニミズム思想とその思想を実行化する日本文化的所作と土地改良という文化に根差した制度資本があるからではないかと思います。簡単に言うと、経済的枠組みではなく、歴史を超えた脈々とした自然と人との繋がりによる思想こそが共有資源を守っているということではないのかと思います。

 さて、先週、経済安全保障推進法案が、あれよあれよという間に国会で可決されました。永田劇場のことはよく分かりませんが、最初、深い審議を求めていたように思った立憲民主党も、結局、一部賛成に回っていて、中身を理解すると言うより、ウクライナ情勢の不安感に後押しされて可決したように思います。

 この法案は、トランプ政権時代に進んだアメリカの自国第一主義に端を発し、コロナ禍での物流混乱と自給力不足、今回のウクライナ侵攻による安全保障の危機が相まって、「いいんじゃないの、企業の皆さんは少々動きづらくなるかもしれないけれど、国の安全保障のためだから」ということで、賛成多数と言うことみたいです。

 いや~、これはどうみても、日本国民の団結による安全保障というよりは、政府と官僚主導の安全保障によって、表面的なナショナリズムを膨らませるだけなんじゃないかと思えます。調達企業の自由度の問題どころではない。経済的枠組みだけでの安全保障は、結局は効率性、合理性の問題に過ぎず、国民が共有したい重要物資や知的財産を守り切ることにはならず、国民の意識離れはこれまで以上に進み、『認知されないコモンズの悲劇』(力のある企業と政府がごちゃごちゃやっていて、国民の知らない内にサプライチェーンから外れてしまったみたいな)とでも言うべき新たな悲劇を生むことに成り兼ねない。日本国内で生産できないとなると、今やどんな国の製品だって安定、安全な供給は確保できないようにも思うし、親しい国が裏切るかもしれない。

 国民が団結し、安全な経済バランスをとるためには、先ずはアニミズムみたいな、地球と心を通わせる新時代アニミズムとも言えるような国民的アイデンティティの根幹づくりがなくてはならない、それが国民に浸透し、意識共有された上での経済安全保障推進なのではなかろうか。

 今日は、やたら理屈っぽく書いてしまいましたが、言いたいことは簡単で、『安全保障は法整備にあらず、国民の心の根づくりからはじまる』ということである。今、日本人は心の居場所がなくなっているのであって、居場所無くして、安全はどこにあるというのか。下手すると、心の根なし草の日本人は、有事になると、♪あ~ 半導体もねぇ~ 医薬品もねぇ 日本人の心もそれほど残ってねぇ おらこんな国いやだ~♪と1億人総避難民となるかもしれない。

※アニミズム: 人間の霊魂と同じようなものが広く自然界にも存在するという考え

※入会地:農村集落などの共同体が、住民共通の資源として薪や用材、肥料用の落葉を採取した入会の里山や、山ではなくても、茅葺屋根のカヤや草刈り場などの草地のこと

※アイキャッチの写真は我が家の庭に咲いたタンポポが綿毛を飛ばす直前。この庭の資源は過少利用だ。ということで、景観的には周りに迷惑をかけているように思う。『アンチコモンズの悲劇』になっているかも。

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