受益と受苦

 昔、専修大学の小林昭裕先生に聞いた話である。小林先生は、専修大学北海道短期大学みどりの総合科学科教授で、自然公園の計画・管理・運営上の課題について、自然環境と利用者との関係性に着眼し、利用者意識や行動面から研究を進められており、知床世界自然遺産地域科学委員会や北海道自然環境保全審議会などの委員も務めておられた先生です。

 お互いに若い頃、30代半ばだったように思いますが、私の所属していた研究室に研修で半年ほどいらっしゃったことがありました。その時に先生から直に訊いた話です。

 この先生は、農村だけではなく、都市の緑化などについても造詣が深いので、多くの方から多様な課題を相談されるそうで、ある時、とある商店街の関係者から、「商店街の通りの真ん中に街路樹を整備したいのだが、花や葉や実が落ちると掃除がたいへんなので、掃除しなくて済むような樹木を整備したいが、何か良い種類はないか」と相談されたという。先生は、普段は非常に温厚な方なのですが、この質問には激高したらしい。

 昔の話なので、少し違っているかもしれないし、私が一言一句を覚えてはいないので、先生がおおよそこんな風に言ったということになります。

「あなたたちは、いったい何を考えているのですか。そんな都合の良いものがある訳ないじゃないですか。緑は自然の物なのです。季節が来れば花も咲けば実も付けるし、それが落ちたり飛んで行ったりする。だから永年に渡って種(シュ)は存続する。針葉樹だって、何も落とさないなんてことは無い。生きているのだから。木々の緑から美しい景観だけを『受益』して、その見返りとしての管理、すなわち『受苦』を背負わないなんてことは許されないことでしょう。人との緑の関係としてそもそも間違っているよ」(小林先生、いい加減なセリフでごめんなさい)

 私は、この時、小林先生はすばらしい方だなぁと感動し、たいへん尊敬しました。その後、いろいろとお世話になり、勉強させてもらいました。

 私は、『受苦』という言葉をこの時初めて聞いたと思います。『受苦』自体はそのままでは仏教なり宗教において、輪廻思想の用語として使われるのでしょうが、先生が言うところの『受苦』は、人の環境から受ける恵に対する代償のような意味なのかも知れません。もちろん、輪廻思想の意味も入っているとは思います。先生には来年あたり、是非、ゲスト講座をお願いして、本当のところを明かしてもらおうかと思っていますが、私はその時はそう解釈しました。

 庭に草木を植えたら、水をやり、肥料をやり、手をかけて育て、花が咲き、目を楽しませてくれたお礼に、種を採り、また植えて子孫へと繋いでいく。もし、街路樹を植えたのなら、落ちた葉や実を集め、肥料を作り、根元に還元する。自然はそれを自然にやってくれるが、人の環境内にいる自然物はそれができない場合があるのだから、人が自然の分まで『受苦』として働くことが、自然から恵を受ける人としての在り方なのだろう。

 前回の「言わせてもらえば」では、多面活動の事務の軽減にICT化を促進することを紹介しましたが、私は、このICT化ということについても、決して『受益』としてだけで捉えてはいけないと考えています。何かの作業が便利になって、人の介入することが減れば、すなわち『受益』が増えれば、必ずそこで何かを失っていると考え、それに見合う『受苦』を常に意識することが重要ではないかと思うのです。デジタル化は葉や実を落とさないから見えないだけで、何か失っていることは確かなのです。

 人はこう言うでしょう。「便利になって得をするからICT化をするのだから、受苦が生じては意味がないのでは」と。いや、そうではない。益は大いに受ければいいのです。受益が増えれば、その分、別の苦を受けるべきではないかということです。

 ICT化のことで言うなら、デジタル化が進むのなら、それによって益を受けた分を、別のデジタル化を付加し、デジタル化によって失われそうなアナログ部分を補う必要があると考えます。なぜなら、作業をデジタル化することによって、確実に人の触れ合う部分、コミュニケーションは減少しているのですから。コロナ禍だから、触れ合わなくていいと言う事ではない。直に触れ合うことによってしか得られないものはあります。決して、デジタル化についていけないアナログ派の言い訳ではありません。

 人にとって、コミュニティの形成やコミュニケーションは多くのストレスがかかるアナログ作業であり、これもまた『受苦』なのでしょう。だから、ICT化によって『受益』が得られるなら、是非、コミュニティ発展のためのアナログ作業である『受苦』をどう位置付けるかが大切なのだと私は思います。

 スマート農業の推進も、農業生産の効率化、工業化によって、農業者一人当たりの所得向上と量・品質の向上を実現するものですが、これによって農業就業者数が減ってしまったり、効率性に向かない農地の改廃に繋がったりしては元も子もありません。

 以前どこかで申しましたが、地域で大規模のスマート農業を成り立たせるなら、その周りに小農が位置づいていることが大切です。これは、環境、防災、福祉、教育の観点を取り入れた地域の多様性としても当然のことながら、バランスの良い『受益』と『受苦』の社会をつくる観点からも必要なのです。小農が『受苦』ということではない。スマート農業は受益部分だけが強調され、受苦を排除する傾向にあるが、農業という産業や農村という社会は『受苦』と『受益』が相まって自然と付き合うことにこそ存在意義があると言う意味です。

 「受苦のない受益はない」それは、自然や緑の維持だけに当てはまることでないと思うのです。

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