農村づくりの排他性と多様性

 今日は農村づくりについて、集団組織の排他性と多様性の観点から話をさせてください。ちょっと小難しい表現をしてしまうかも知れませんし、推敲が甘く、間違った表現が含まれるかもしれませんが、ご容赦ください。

 農村集落という組織は「排他性」を持っています。地域組織も「排他性」を持っています。昔からそうですし、今も基本は変わりありません。「村八分」という言葉があるように、古い文化や体制の残った(引き継がれた)集落組織ほど排他性は高いものです。しかし、ひとたび集落組織内に入れば、その居心地は快適で、住民として認められた人は絶対的な保護の対象となります。(排他性と閉鎖性については文末に説明)

 そもそも、家族や地域、学校や会社、国家等のコミュニティというものは、基本的にその内組織と外組織を分断することによって、安心感や安全性を確保できるのであって、これを取っ払った社会の中で生きていくことは難しいと思います。地域や学校や国家が外組織(他地域、他校、他国)と分断しているからこそ、そこにアイデンティティは形成され、帰属性も生まれ、競技大会もできればオリンピックもできる訳です。分断こそが自分がどこに属しているかの見極めとなるものですから、「分断」は一概に悪い言葉だとは言えません。人が社会で生きていく上で重要な要素であります。ちなみに、高校野球において、自校より他校を応援する人は少ないが、オリンピックでは自国よりも他国を応援する人が多くなるのは、アイデンティティの強さによる分断力の大きさではないでしょうか。よりグローバル化とリベラル化が進んでいるという面もあると思います。

 人の繋がりや人と環境との関係性が希薄とされる現代の社会組織は、自分自身は安全に守られるが、自分以外は見ることのできない社会となっていて、他者や外組織には無関心ですが、こういう組織であってもしっかり排他性はあります。また、自分はリベラルだと言う人でも、何らかのコミュニティに属することは多く、規模に関係なく、組織を内外に分けることになります。

 少々SF的な表現となりますが、もし地球国という一国ができたなら、地域格差もなくなり、世界から紛争は消え、LGBTの差別問題も、南北問題も無くなるのでしょうか。おそらくは、空間的な制約を取っ払ったとしても、実際はそういうことにはならないだろうと思います。

 自己が生きるためにはどうしても排他でなければならないのです。なぜなら、生命の連続性は、多様性の中で最も合理的に一種、一族(実際にはそういう狭い概念ではないが、便宜的に使う)の遺伝子をコピーするという命題を抱えているからです。

 「遺伝子は利己的である」ことが真理だとするなら、文明の進化と社会の変遷の中で、利己性が見えなくなっている時代や場面もあるのだろうが、それはまた時代が変われば見える部分であって、単一性を求め集まり、コミュニティを形成することで、意思なき利己性により遺伝子を繋ぐことは避けられないのです。プーチンのウクライナへの侵攻は許されることではありませんが、プーチン自身からすると、東スラブ人の遺伝子と偉大なるロシアのアイデンティティを空間的に守るための本能的・利己的な一行動なのかもしれません。

 これからの世界の価値観として「多様性」が大切だと言われます。私も、「言わせてもらえば」のコーナーで、これまで何度も多様性の重要性を述べてきました。また、SDGsの基本的な柱としても「多様性」は重要な要素でもあります。

 しかし、もしどんなに頑張っても、結局、コミュニティが排他性を求めているなら、本当の意味での多様性を持った組織は世界には存在しないのではないかと思えるのですが、如何でしょうか。

 実は多様性と排他性は表裏一体の関係で、単一性という世界も存在しないというのが私の結論です。単一性の組織という内組織ができた瞬間にそれ以外の多様性をもった組織が外組織として産まれてしまうようになっていて、アイデンティティは内にあるが、常に外を合わせ意識しなければ内も維持できないと考えるべきだと思うのです。つまり、完全な分断もまた不可能なのです。

 さて、以上の話を踏まえて、再度、農村づくりを考えてみます。私は、農村づくりにおいて、多様性は重要な要素だと考えていますが、かといって、単一性の組織を守ろうとする文化や伝統や、集落の気質を変容させてまでも多様性を内組織に取り入れることはないと考えています。

 しかし、最近の地域づくりはどうでしょう。多様性、多様性と、何が何でも多様性を求めなければならないように見えます。地域に多様性があれば、多様な活性化に結び付けられると信じているようですが、私はそれを少し冷ややかな目で見ています。

 間違ってはいけない。『多様性の中から新しいものが生まれて来るのではなく、単一性を揺るがす多様性が単一性の中から新しいものを生み出させてしまう』というのが正しい表現なのではないかと思うのです。

 排他的な集落は、一気に外組織から多様性を取り入れることはありません。その分、現代の経済的活性のスピードからは遅れることになるでしょう。しかし、それでいいのです。遺伝子たちも多様性の中からどの遺伝子を取り込むかは時間をかけて選択しているし、長い時間の中でミスコピーもいくらでも生まれてくるが、これも多様性です。多様の中から単一が生まれ、また単一が多様を求め、分断しながら進化していく構造を農村づくりの中に求めるべきではないだろうか。『多様性のある農村が生き延びるのではなく、排他的な農村こそが持続的に多様性を享受し、生き延びる』ということのように思います。

※「排他性」と「閉鎖性」はよく似ているが、異なる。価値観やアイデンティティに基づく姿勢が排他性であり、価値観等は関係なく特定の集団の内外を分けるのが閉鎖性である。「閉鎖的な集落組織」と使う場合もあるが、ここでは価値観の多様性の話をしたかったので、「排他性」を使わせてもらった。

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