景観づくりは農村づくり

 今日は、私の専門である「景観」について少しお話してみましょう。

 「景観」とは何かを、辞典やいくつかの書籍で調べてみますと、いろいろと表現の方法は違うものの、地理学者である辻村太郎先生の「自然空間、人文空間を問わずすべての人間の視覚で捉えら得るもの」という説明が、最も単純で端的と言えそうです。只、この説明は神の視点からの表現みたいですが、人間の視点からの表現なら、「人間をとりまく環境のながめ」という、土木工学出身で景観工学の大家である中村良夫先生の定義も捨てがたい。

 「眺め」は一般的には視覚行動を指していますが,景観を物理的に表している環境というものは五感すべてを通した刺激として受け取られています。また、「眺め」は人の経験や目的によって作用する脳内での認識によって環境に意味づけが行われてはじめて成立するものです。よって、ここでの「眺め」という言葉は、単なる視覚的認知と読み取るべきではありません。視覚を中心とした「感覚的な関係性」としての眺めと「意味的な関係性」としての眺めの体系であると判断すべきでしょう。ちょっと、難しい言い方をしましたが、簡単に言うと、「眺め」は見えている物の形や色だけでなく、人が五感を通して感じたことすべてということになります。

 近年では、地域文化や地域生態系の成り立ちも含めて捉えられており、私としては、より一般人の視点として表現して、「地域の生産活動、生活活動を通して表現される環境の総体を視覚を中心とした五感で捉えたもの」と定義しておきたい。

 この環境の総体は、人間の長い年月をかけた自然への働きかけによって生まれ、地域の記憶とともに現存するものとして捉えられます。

 景観は、時間的・空間的かつ人文・社会的な一切片の眺めを示していますが、これをデザインしたり整備したりするということは、美しい国土形成、地域振興等の目的の下、「眺める主体となる人間」と「眺められる環境」との関係を適正化し、そこに暮らす人々が美しいと感じ、誇りとなる景観要求を満たし、それが、文化や教育等の地域性を形成し、生態系保全や観光等の公共的価値を生み出すことになります。

 しかし、平成11年の食料・農業・農村基本法において、多面的機能が謳われ、『良好な景観の維持』と言う言葉が政策に表出した後も、平成13年の土地改良法の改正において、『環境との調和への配慮』が位置付いた後も、さらに、平成16年に景観法が成立した後でも、現場において、景観づくりでやっていることは、「美しい景観」、「きれいな景観」の答えを求めることです。

 だから、すぐに、町中を花いっぱいにしようとか、棚田がきれいだから残そうとか、コンクリート水路は景観的に良くないので、石積みにしようとか土羽にしようとか、地場産の材料を使った建物を建てようと考えがちです。

 決して間違いではありません。でも、食料・農業・農村基本法において言われている『良好な景観の維持』は、きれいな景観のことを本当に指しているのでしょうか。

 あくまでも、基本法における多面的機能としての『良好な景観』は、農業生産が健全に営まれることにおいて維持・発揮されるものであることに注目すべきであると思います。

 私の考える景観の美しさは、景観をきれいにすることではなく、それは、その土地があるべくしてあるべき姿として『良好』であることを、地域の人々が認識しているということ。また、もし良好でないのなら、良好でないということを認識して、改善したいと望んでいるというその地域への想いにあると考えます。

 だから、私は、地域の皆様に言いたい。自分の住む農村地域を良くしていきたいなら、先ずは、自分たちの地域の農業と生活の活動とそれに伴って形成された景観をよく見ることだ」と。景観が良くない、自分たちの農村地域にふさわしくないと見えるなら、生産、生活と環境との関係性に何か問題があるのだ。

 景観を見つめ直すことは、自分たちの生産・生活の姿を見つめ直すことに他ならない。農村の姿を見つめ直すところに、将来の農村の生き方は見つかるものである。景観づくりを考えることは『農村づくり』そのものなのです。

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